一 陽春の出会い - 1/3

 散々な目に遭った。
 ひとつ峠を越えた先の山奥の集落で、数年に一度しか花をつけない植物がまさに見頃を迎えているらしいと聞いたのが発端だった。宿の主人が次にいつ咲くかは神のみぞ知る、だなんて大げさに言うものだから、あと一週間ほど滞在するつもりだった宿場町を足早に後にした矢先に、山ひとつを削りきってしまいそうな大雨に見舞われた。
 山の天気は変わりやすい、なんて言葉で片付けられるようなものではなかった。ひっきりなしに雷鳴が轟き滝のような雨が打ちつけ、何やら不穏な地鳴りまで聞こえてくる。 それでも目的の村にはなんとか日付が変わる前に辿り着いた。どこからかぱた、ぱたと雨漏りの音が聞こえる民宿にずぶ濡れの体ひとつと荷物で転がり込み、淹れてもらった熱い茶をすすってほっと一息、ようやく足を伸ばす。
 その瞬間、物凄い地響きがあたりに轟き渡った。
 慌てて飛び出すと、ついさっき歩いてきた山間の道が大量の土砂に埋もれている。
「あんた、命拾いしたねぇ!」
「ああ……あと四半刻でも到着が遅ければどうなっていたことか」
 自分と同じく慌てて飛び出してきた民宿の女将にばしばしと肩を叩かれ、しばらく呆然と目の前の惨状をを眺めていると、村の男達に声をかけられた。土砂崩れに堰き止められた川の流れが村に押し寄せないよう即席の堤防を築くらしく、手を貸してほしいという。
 そうして言われるがままに駆り出され、豪雨の中を夜明け近くまで働いた。東の空が仄かに明るくなる頃、ようやく戻った民宿は案の定雨漏りがひどく、建て付けの悪い窓枠は始終ガタガタと鳴り続け、とても快適な環境とは言い難いものだった。それでも気がつけば泥のように眠っていた。

 翌日、昼前に目が覚めて、村人にそれとなく例の植物について尋ねてみた。
 水源近くは雨にやられて夏過ぎまでは誰も入れねぇだろうよ。村人はぶっきらぼうに答えると、面倒臭そうに頭を掻きながら被害を受けた家々の修理をしに立ち去った。隣県の宿場町まで引き返そうにも来た道は既になく、集落はどこも大なり小なり被害を被ったようで、悠長な花見客を泊める余裕などどこにもないようだった。
 いるだけ邪魔ならば、なるべく早く立ち去るしかない。そんなこんなで仕方なく、昼過ぎに最低限の補給だけを済ませて村を出て、山の向こうへと続く道をぬかるみに足をとられないよう慎重に進んでいた。 山が険しく鉄道を敷くのに難儀するこのあたりでは、いまだに歩荷と呼ばれる人々が生活物資を運んでいるときく。そのおかげか山道はしっかりと踏み固められており、豪雨の翌日でも問題なく通行できるのが幸いだった。

 昨日とはうってかわって空は底抜けに青く、春にしては暑いくらいの陽気だ。このまま気温が上がり続ければ、明日にはこの辺りでも桜が一斉に満開になるかもしれない。 濡れそぼった二分咲きの山桜が落とす雫に肩を濡らしながら、今日こそはゆっくり足を伸ばして眠れる宿を見つけたいものだと考えていた。
――、…………っ
 何か聞こえる。
 初めは葉擦れの音かと思い気にも留めなかったのだが、何度目かにはっきりと聞こえてきたそれは、
「とうちゃんっ……かあちゃあんっ」
 幼い子どもの声だ。はぐれてしまったのだろうか、必死に両親を呼ぶ声は涙交じりのものだった。
「おうい、どこにいるんだい」
 姿が見えないので仕方なく、あてもなく叫んでみた。驚いたのか子どもの声はぴたりと止んでしまった。それでも耳を澄ますと、どこからか不自然な木の葉の擦れる音が微かに聞こえてくる。 どうやらかなり近くにいるらしい。
 しばらくあたりをきょろきょろと探り、大人が両手を伸ばしてもまだ余りある太い幹をした木の裏に回り込み、そうしてようやく子どもを見つけた。
「ぼうや、どうしたんだい」
 手も足も真っ黒に汚れた男の子が、倒れた大きな木の側に膝を抱えて座り込んでいた。大人の姿を認めるや否や、堰を切ったように大声で泣き出す。
「お父さんとお母さんはどうした?」
 男の子は泣きじゃくるばかりで、どうしてこんなところにひとりでいるのか見当もつかなかった。どこから来たのか誰と一緒だったのか、わからなければここから連れていくこともできない。
 いっしょに、きたひとは、どこにいるんだい。膝を折って目線の高さを合わせ、細い肩を安心させるように撫で擦りながら、もう一度ゆっくりと問うてみる。
「おとっ、ちゃんは……ここ、いなさい、て」
「いつからここにいるんだい」
「よるから……」
「夜から……? まさか昨日からこうして」
 大粒の涙で頬を汚し、着物の裾を掴んで離そうとしない男の子は、よく見れば全身しっとりと濡れていた。 暑いくらいの春風に着物も髪も乾き始めてはいるが、これは相当濡れたに違いない。
「一歩間違えれば死ぬところじゃないか……!」
 ようやく合点がいった。この子は親に捨てられたのだ。親もまさか豪雨になるだなんて予想はしていなかったのだろうが、よりによって大人でも恐怖するあんな嵐の夜に、この子はひとりきり置き去りにされたのだ。
「ぼうや、一緒においで」
 見つけた以上ここに放っておくわけにはいかない。かといって旅暮らしの自分には引き取って育てることなど到底できはしないし、責任をもって里親を探してくれる人のところまで送り届けるのが精一杯だろう。
 男の子は足に縋り付いたまま、いやいやと首を振る。
「ここにいても、お父さんとお母さんは帰ってこないんだよ」
 顔も知らぬこの子の親への憤りが固い口調に滲んでしまっていたことに気がついて、怖がらせないように目を覗き込んで諭すように言った。まだ幼いこの子は、言葉の意味の全てを理解することはできなかっただろう。それでももう一度おいで、と声をかけると、ぐずりながらも着物から手を離した。しっとりと濡れた小さな体を抱き上げると、少し鼻を鳴らしたきりおとなしくしている。
「さあ、いこうか」
 木々の間からは目指す山すその町の茅葺き屋根が見え始めていた。