青い春

『青い春』 監督:豊田利晃 2001

(松田龍平とTHE MICHELLE GUN ELEPHANTにホイホイされて軽い気持ちで観たら精神ぶん殴られましたシリーズ。この後同監督の『ナイン・ソウルズ』も観てさらにダメージを負うのだが、それはまた別の機会があれば書こうかと思う)

 凄いパワーを持った作品。観賞中ずっと肩に力が入りっぱなしだったことに終わってからようやく気がついた。それぞれの「青い春」の生き様とその終わりが心に刺さる。皆何かに必死で、それは将来の事などまるで見据えてはいないのだけれど、きっとあの瞬間にそれ以外に大切な物は存在しないのだ。
 ベランダ・ゲームで新しく番長となった九條はそもそも学校を仕切る事に興味はなかった。ではなぜベランダ・ゲームに参加したのだろう。きっと彼は常に漠然としたもっと先の何かをひたすら見つめていたのだろう。漠然と、その正体を掴む事に躍起になるわけでもなくしかし目を逸らす事なく見つめていた。そういう人間が一番恐怖に強いというのは、少し恐ろしいような気もしてくる。
 番長となった九條はただ変わらず毎日を過ごしているのに対して、周りの反応は様々だ。恐ろしい奴だと勝手に恐怖する者、たかが一回の根性試しでいい気になってるんじゃないと嘗めてかかる者…その中でも一番九條の行動に反応していたのは親友の青木だった。青木は九條が後輩達に嘗められている事が気が気ではない。苛立ちを募らせる青木に対して九條はお前の方が番を張るのに向いてるよ、と言う。青木はずっと九條と一緒に成長してきたから、きっと自分が彼に遥か及ばない事を、どこかで判ってしまっているのだと思う。理由はわからない、しかし確かにこいつに自分は敵わないんだと…その相手が自分の親友だからこそ、青木にはその苛立ちのやり場がなかったのだ。
 どこ吹く風の態度を貫き続けるかと思われた九條が初めて行動を起こすのが、青木が散々な目に遭わされた時だ。今まで自分がどう陰口を叩かれようと気にも止めなかった九條が、金属バットを片手に無表情で報復する。九條は番長の力を見せつける為にやったのではなく、ただ青木の為にやったのだ。それが余計に青木の惨めな思いを増幅させる事に九條は気がつかない。
 目指す世界に手が届かなかった。描いた筈の将来を見失った。そうした思いがふとしたきっかけで歪んだ方向に進んでしまうのは、彼等が青い春の真只中にいるからだ。様々な形で一人、また一人と青い春を終わらせてゆく同級生達を、九條はただ屋上から見続けている。やがて彼はまだ見ぬ外の世界に出口を見出し、そこへの一歩を静かに一人で歩み始める。
 しかし青木はまだ青い春の中で苦しんでいる。九條の隣に決して並び立てない事を、彼はきっともう判っているはずだ。しかしそれでは終われない、どうしようもならないのだ。些細なきっかけから打倒九條を掲げ後輩を舎弟として連れ歩くようになった彼の「こうでしか息ができない」様子はとても痛々しく哀しい。
 青木はただ九條に近づこうとする。青木だけがいつまでも九條の心に近づき寄り添いたいと思い続けているのに、当の九條はそれに気がつかない。いつだって苦しみを負うのは追いつけない側だ。ある日青木は屋上に一人立ち続ける。日が暮れて生徒がみな帰り、やがて車のライトがいくつも通り過ぎ、街が寝静まっても立ち続け、ついに夜明けの頃に彼はようやく九條が見ていた物を理解する。
 「今ここで終わってもいい」青木の青い春の出口は、あの形でしか成り得なかったのだろう。ただ純粋に、ひたすら馬鹿みたいに九條を追い続けた青木は13回手を叩いた瞬間確かに同じところに立っていた。
 決して届く事はないと判ってしまった存在をいっそ憎む事ができたなら、どんなに楽だっただろうか。一番譲れない物だからこそ、そこに執着し続ける事は死を意味する。それでもその潔さがとても眩しくて、とても悲しかった。

 

*壁打ち的なメモ*

  • 松田龍平のあの色気はなんなんだ。目線もそうなのだが、あの唇がすごい…『ぼくのエリ』で主役を演じたカーレ・ヘーデブラントを思わせる色気。ぞくりとした。
  • 「咲かない花もあるんじゃないですか」「花はみな、咲くと思う事にしています」この会話がとても刺さった。私は咲かない花はないと思う。その栄華の瞬間に気がつけるかどうかであって、きっと花はどこかで咲いているのだ…そしてそれを、誰かに気づいて欲しいと思っているはずだ、と思う。
  • 九條のような存在は他人を絶望させると思う(決して九條が悪い訳ではないし、彼自身にもどうしようもならない事だと思うけれど)。一番恐ろしいのは、自分が他人にとっての決して届かない存在になっていることに気がついていない人間ではないだろうか…。