光にふれる

『光にふれる』(原題:逆光飛翔 Touch of the Light)

監督:張榮吉(チャン・ロンジー) 2012

初鑑賞:2014年10月

 まず感じたのは羨ましさだった(私が何かを見たり聴いたり、はたまた読んだりした時に一番感じる事が多いのは羨ましさだ、と思う。それはきっと私が無知で幼くてまだ何も見えていないからなんだろうな)。純粋な思いはまるで融けかけた雪の煌めきのようだった。眩しい白の中に僅かに浮かぶ淡いブルー、パープル、ライトグリーン。透明で眩しい、しかし痛みはない光。そんな風に思えた。
 物語はユィシアンが彼の母親と共に台北の大学へ向かうところから始まる。視覚ではなく音で世界を捉えるユィシアンの知覚感覚は、視覚と同じくらいに多種多様な色を持っている。視覚を持つ人が聴覚からの刺激を感じやすいように少しオーバーに表現してあるらしいのでリアルだ、と感じる事ができたのだろう。
 この作品を観た人の多くはユィシアンとシャオジエがそれぞれの光=未来に進み始める様に勇気や感動を覚えるのではないだろうか。勿論それは私も感じたのだが、私の場合この作品を観て一番に残しておきたい感想ではなかった。
 この作品で一番素敵な人物、それはルームメートのチンだと思う。彼は体育専攻の学生、恐らくユィシアンとは最も縁遠い世界の人物だろう。そんな彼が全く当たり前にすんなりとユィシアンを受け入れる事を素敵だなと思い、同時にこの感情こそが健常者が身体障害者に向ける特別意識なのだなと思った。ユィシアンは「もし目が見えるようになったら何がしたい?」という問いに対して、カフェの窓辺の席に座ってゆっくりとお茶を楽しみたい、と答える。彼が求めているのは誰も彼の一挙一動を気にしない事、無視して欲しいということではなく、ただ普通であることを普通に受け流して欲しいということなのだ。ありふれた日常に溶け込んでゆく、それが彼にとってどれだけ大変な事か。私がチンの全く普通に接する態度に気持ちよさを覚えた事自体が、ユィシアンを特異であると見ているということなのだ。
 チンがユィシアンを他の人と変わらず受け入れる人物であるとするならば、シャオジエは彼の世界を理解し近づこうとする人物だ。彼女はユィシアンに健常者と全く変わらない態度で接する事はできないだろう、それが普通だと思う。意識するな、ということは考えているよりもずっと難しいことだからだ。チンのような人物は滅多にいないだろう。
 シャオジエは彼の知覚している世界を知りたがり、できる限り触れようとする。哀れみや同情からではなく純粋な興味だ。ユィシアンもまた、彼女の自己表現の方法であるダンスを知りたがる。相手がどのように世界に触れているのか、それを知るには実践してみることが一番の近道だろうと思う。言葉だけでも視覚だけでも伝えられないものを二人は共有し合い、心を通わせ、互いの光=未来の世界への一歩を踏み出す勇気を得てゆく。
 自己の解放の瞬間には他人の目や己の中の自身の無さ、そういうしがらみを全て忘れる程の喜びと陶酔感があるように思う。心から生きている、光っている瞬間にいる人間のパワーに人は感動を覚えるのだ。結果は関係ない。たとえ失敗しようともその瞬間の喜びと達成感で、前を向いて生きてゆける。
 エンドロール中の彼等の交流にも胸を打たれた。健常者と変わりなくカラオケをし、一緒に遊ぶ。ユィシアン自身も意識しないであろう自然さが、心に響いた。ありのままの自分を受け入れてくれるところ、「受け入れてくれた」という意識すらも抱く事無く全くの自然でいられるところ。身体障害者だけではなく全ての人が、そういう世界を求めて生きていると思う。日々周囲の反応や視線を気にして神経をすり減らすのではなく、ただ自然のままにゆるやかに存在していられる場所へ、どうしたら辿り着けるのだろう。真の意味で居場所が欲しいと願う人に、この作品はとても眩しく尊く思えるのではないかなと思う。私もあんな世界に行きたいと思う一人だった。

*壁打ち的な蛇足のようなメモ*

  • 最後の、演奏の仕事を受けるユィシアンはあまり幸せそうには見えなかった。あの仕事でのプロデューサー達は彼の事を特別な意識を持って見ているのだろう。意識しているという意識すらないままにそうしているのかもしれない。あれが私達の一般的な反応だろうなと思う。
  • いくらそういう視線の中にいても、二度とユィシアンはピアノから離れる事はないだろうなと思った。解放の喜びと真の理解者がいるという安心感は、それだけで生きる理由足り得ると思うからだ。