――やはりどうにも気になる。いくら酒瓶を空にしても気持ちよく酔いきれないのは、不在がずっと引っかかっているからだ。
あいつのことだ、どうせどこかでひとり夜風を浴びているのだろう。帰ってくる気がないなら迎えにいってやろうと思った。
「腹へった。なんか買ってくる」
買ってきたところで食う気もなさそうな死屍累々を放置してその場を離れた。こいつらは朝までここに転がしておいても別に死にやしない。手ぶらで行きかけて、思い直して蒼月の置いていった小説本だけを持っていった。
仲間が全員酔い潰れて静かになった後で、ようやく蒼月はぽつぽつと話し出すのだ。大抵生き残りは俺しかいないから、話し相手はいつも決まっていた。女の胸のデカさを評価するより、アルコールで鈍った思考のまま、蒼月の口にするよくわからない音楽やら小説やらの話を一方的に聞く方が好きだった。話の内容より、彼の話す気配が、声が作る空気が好きだったのだろう。
探しに出たはいいが、どこに行ったのかさっぱり見当もつかない。見つからないならそれはそれで仕方がないなと思いながら、人の気配のしない路地を無意味に選んで歩いた。ネオンの瞬きが騒々しい駅前と違って、このあたりは店が閉まれば闇の方が色濃くなる。
手持ち無沙汰に手の中の小説本をパラパラとめくってみた。さっき蒼月が口にしていたのは作者名だったようだ。普段ほとんど本を読まない人間からしてみれば、やたら活字の小さな翻訳小説はそれだけで読む気を失ってしまう。
生まれ持った視覚特化型の記憶特性を鍛えるために、彼の師にあたる人物に本を与えられたことが読書癖のきっかけになったといつか話していたっけか。それならこれまで読んできたもの全てを一字一句覚えているのか。驚きとともにそう尋ねたら、彼はニヤリと笑って言った――覚えてしまったらつまらないから、小説は意識的にそうしないように読んでる。
つまりあいつは師の指導などまるきり無視しているわけだ。まったく大した奴だなと思う。俺ならあんなおっかない師匠に歯向かう気にもなれない。
ふいに猫が何かをひっくり返したような音が聞こえて立ち止まった。急な物音は心臓に悪い。
小動物ならいいが、人なら厄介だ。無視を決め込んだ方がいいかもしれない。そう思いながらも、好奇心に引っ張られて狭い路地を覗き込んだ。自慢ではないが最悪敵意を向けられても、拳銃を持ち出されでもしない限りはあしらえる自信があった。
階上の窓から漏れる光が僅かに路地を照らしている。そこまで夜目が利く方でもないが、ものの輪郭はかろうじて見えた。
空調の室外機が積み重ねられた間に人がいる。やはり人か。こういうときの勘は当たるのだ。
黙って引き返そうか迷ったが、その姿勢が妙なのが気になった。座り込んでいるのか、靴の先が天を向いている。片方の膝を立て、もう片方は前方に投げ出していた。
微かな物音がまた聞こえた。へたり込んだ人影が咳き込んだのだと気づいたときにはもう、足が前へと向かっていた。
「……アオ?」
確信はなかった。確信に至るほどの判断材料は揃っていなかったが、正しいと思考が告げていた。
声に反応を返すこともできないのか、蒼月は俯いたまま荒い呼吸に溺れていた。
「おい、大丈夫か?」
肩を軽く叩いても反応はない。それどころか抵抗もなくぐらりと倒れかかってきた。
「ッ……ぅ」
食いしばった歯の隙間からこぼれるような呻き声。地面に落ちた手はきつく砂を噛んでいた。
呼びかけを繰り返しても意味のある返答に繋がらない。見たところ怪我をしているわけではなさそうだし、あの程度の酒量で倒れるような奴ではない。しかし目の前で苦しんでいるのは事実で、つまりどうしたらいいのかさっぱりわからない。
「痛むのか? どこが痛い?」
胸元に置いた手が固く握られている。体全体を使うような呼吸の度に震えて、何度目かの咳き込みでついに爪を立てた。
ぁ、とほとんど声にならない苦痛が溢れる。突き刺さってそのまま血が流れ出しそうなほどに力の込められた指先は白く色が変わっていた。
――胸? 心臓? だとしたら俺にできることは何もない。医療の知識なんて皆無だし、そもそも何が起きているのかさえわからない。
ふいに華奢な背が痙攣するように震えた。ごぼ、と水っぽい音がして、前触れもなく吐き戻す。精一杯の抵抗だったのか、僅かに背けられた顎を吐物が伝った。
既に散々吐いた後なのか、それとも元々何も腹に入っていなかったのかわからないが、内容物のほとんどない液体がぼたぼたと落ちる。
「ぐッ…ぅ、ェおっ……けほっこほ、ごほっ……」
「息止めるな、全部吐いちまえ。その方が楽になる」
聞こえているのかいないのかわからないが、蒼月は何度か背を大きく戦慄かせると震えながら嘔吐いた。吐き気は強いようだが、戻すものもないのか呻くばかりでどうにもならない。
指突っ込んで吐かせてやろうか、いや多分滅茶苦茶抵抗するだろうな。そんなことを考えながら背を擦り続けた。骨の形がありありとわかる背はこういう体質だと言うには無理があるほどに細い。もっとガキだった頃からこいつはずっとこうだった。どれだけ食っても太らない人間が存在するのは知っているが、こいつはそもそも飲み食いする量からして少ない。
「っ……は、ひゅ…ッぜぉ、ごほッッ……! っ、う……も、いい……」
「落ち着いてきたか?」
蒼月はこくりと力なく頷いた。吐き気の波は遠ざかったらしい。
「っ…は、ハ……――い、って……」
力の緩んだ左手が胸元をまさぐった。ふたつまで外した釦の下、細い銀のチェーンが見える。手繰って取り出したのは小さなピルケースだった。
蒼月はケースの蓋を外すと、中に入っていた白い錠剤をひとつ手のひらに転がし、口に含んだ。
「薬? いつもそんなもの持ち歩いてるのか」
水買ってこようか、と訊いたが、首を横に振られた。そのまま立てた片膝の上に額を預けてぐったりと動かなくなる。
寒い、と譫言のように呟いた。冷や汗にじっとりと湿ったシャツの背が震えている。こいつコートどこにやったんだ? 辺りを見回せばすぐそばに丸めて投げられているのが目に入った。ったく、クソ高えもんを雑に扱うなよな。拾って背にかけてやると、しばらくして震えも治まった。
「前々から気になってたんだけどさ……お前、どっか悪いのか」
元々そう頑健というわけではないのは見ていればわかる。何度か戯れのような手合わせをしたこともあるが、運動神経は抜群のわりに体力はない。激しく消耗しそうな物事は意識的に避けているようだったし、何か事情があるのだろうとは察していた。
「言いたくないなら無理には訊かねえけど……なんか力になれることとかあったら」
蒼月は答えない。俯いたまま、細い肩を上下させて呼吸していた。
