3 イニシャル - 2/2

 先程騒々しく飛び出してきたばかりの喫茶店に戻り、互いに押し黙ったまま数分が過ぎた。
 早渕がおずおずと差し出したシュガーポットの蓋を彼は無言で閉じると、元の場所に返した。どうやらブラック派らしい。
「依頼を受けるかは話次第だ」
 湯気の立ったコーヒーを一口すすり、彼は気怠げな吐息を零した。ようやく血の通った人間らしい所作を目の当たりにして、緊張が少し解けるのを感じていた。どれだけ底が見えなかろうが危険な存在であろうが結局は同じ人間、肺と心臓と脳が機能を停止すればただのモノになる。
「ありがとうございます、青柳さん……いえ、蒼月さん」
「なんだ、やっぱり知っているんじゃないか」
 気配がこっちの人間らしくないから半信半疑だったが、と情報屋は溜息混じりに呟いた。
「すみません。一番当たり障りのないものを選んだつもりでしたが」
 「青柳」はグレーゾーンな取材行為を繰り返す自称ジャーナリストで、芸能絡みの派手なスキャンダル中心の週刊誌に時折情報提供をしているようだが、その他にも彼が〝青〟繋がりの名前を複数使い分けているというのは知っていた。彼は初対面の相手が何と呼びかけてくるかで、その人物がどこから情報を得て接触してきたかを判断する。だから一番浅く広い人脈のありそうな「青柳」と呼びかけてみたのだが、あっさり見抜かれていたようなので、最初から捻らずに接触する方が正解だったのかもしれない。
 「蒼月」は裏社会の情報屋としての通り名だ。誰が最初にそう呼びはじめたのか、どうして呼ばれるようになったのかは誰も知らないという。しかしこうして実際に会ってみると、闇に浮かぶ月を思わせる印象はまさにその名の通りだとわかる。夜職の人間がどこか共通した色を持っているのに似て、彼は深い夜のにおいを纏っていた。
「申し遅れましたが、僕は早渕悠貴と申します。四聖会病院で研修医として働いています」
「へえ、医者か。あまりそうは見えないな、学生かと思った」早渕を怒らせたいのか、蒼月はわざと皮肉めいた物言いをした。
「よく言われます」
 早渕は曖昧に微笑んだ。つまらない挑発に引っかかって余計な情報を与える気はない。こういう人間は二言三言会話を交わす間にも、自分の欲しい情報をそれとなく抜き出す技を体得していると考えてほぼ間違いない。
「時間が惜しいので、早速本題に入らせてもらいますね」
 早渕は一枚の写真を取り出して、テーブルの真ん中に置いた。
「探しているのはこの女性です」
 右端に写っている、明るい髪色にやや派手な化粧をした女性を指差す。三人の女性が楽しげに笑っている写真は、性能の悪い画像編集ソフトで無理矢理に拡大処理を施したようで、お世辞にも画質が良いとは言えなかった。
三科みしな彩央里さおり、二十一歳。先月末、祖父の見舞いのために病院を訪れたのを最後に失踪しました」
「名前にも姿にも覚えはないな」
 迷う素振りもなく蒼月は即答した。
 「知らない」という、情報を扱う者にとって致命的にもなり得る事実をこうもあっさりと、それも初対面の自分に向かって答えた意図はなんだ? 早渕は当惑したが、それを態度に出さないくらいにはまだ冷静だった。
「警察を避けたい事情があるなら、人捜し専門の探偵にでも依頼した方が話が早い。どうしてわざわざ俺に持ちかけた?」
「失踪の理由がはっきりしているからです。裏社会で情報を扱う貴方が一番適している。彩央里さんは、祖父が優先的に新薬の治験に参加できるようにと、ある人に取引を持ちかけた……いいえ、体よく利用されたんです。彼女は最も取引すべきでない相手を選んでしまった」
 敢えて回りくどい言い方をしたにもかかわらず、蒼月は口を挟むこともなく黙っている。
 少し試してやろう。早渕は何気ない口調で一歩踏み込んだ。
「蒼月さん。呉山くれやまけいという人物を、ご存知ですか」
 早渕の言葉を聞くなり、蒼月は自然に、しかし素早く周囲に目をやった。
 ちょうどカウンター近くの席に座った二人組の客が和やかに会話を始めたところで、店主がジャズミュージックの音量を少し上げたところだった。早渕の発した言葉は、恐らく蒼月の耳以外には入らなかっただろう。
「呉山は一般人が一飛びに取引できるような相手じゃない。こんなところで無遠慮にその名前を口にできるあんたにはわからないかもしれないが」
「知ってて言いました」
 早渕は平然と答えた。
「蒼月さん、貴方なら『三科』という名を聞いた時点でピンときていたのでは? 三科規夫のりおという人物のことも、当然ご存知でしょう」
 蒼月は諦めたように息を吐いた。やや目を伏せ、一瞬何かを考え込むような態度を見せる。僅かに翳った表情に、彼の迷いが見て取れた。
「あんた、相手が俺で幸運だったな。持ちかけた相手次第じゃ、その失踪した女の二の舞になってた」
「だから最初に言ったでしょう。貴方にしか頼めない、と」
「全て織り込み済みというわけか」
 返答の代わりに、早渕は蒼月の目を真っ直ぐに見返した。直視されても少しも揺らがない目は、持ちかけられた厄介事を楽しむ余裕さえ感じさせる。
 やはりこの情報屋を使ってみて正解だったと早渕は思った。
 本当は人探しなどどうでもいい。首尾よく運べば三科規夫にもついでに恩が売れるから、どうせなら上手くいけばいい。その程度のことだった。
 ようやく出会えた。本当に探していたのは、彼のような人物だ。

「彩央里さんは、三科規夫の孫娘です」
「つまり、あのじいさんが末期癌で死にかけてるって話は本当だったわけか」
 あんたの情報を鵜呑みにする気はさらさらないが、と蒼月はわざとらしく付け加えて言う。
「あの様子ではもう延命は望めません。保って数年程度かと」
「おいおい、医者に守秘義務ってものはないのか?」
「情報も立場も使いようです。そうでしょう?」
 早渕の言葉を聞くなり、蒼月は軽く笑った。人は見た目によらないな、と独り呟く。
 その深い夜の色をした瞳に自分の姿はどう映っているのだろうか。早渕は知りたくなった。どうしたら知ることができるか――その先に考えを巡らせはじめてすぐやめた。それを明らかにするのは、彼をもう少し使ってからでも遅くはない。
「そろそろ回りくどい話はやめます。貴方には、彩央里さんを呉山の下から連れ戻してほしい。もしくは、呉山が三科一派にちょっかいを出している暇がなくなるように、事態を撹乱させてほしい。手段は問いません」
「話は戻るが、そもそもどうしてその女を探してる?」
 蒼月は目を細めて尋ねた。
「そこまで言わないと情報を売らない主義ですか」
「いいや? ただこちらも慈善事業じゃないんでね。顧客が取引相手として相応しいかを見定めなくちゃならない。あんたは現時点では何ひとつ信用を持っていないし、こう言っちゃ悪いが、リスクを飲み込んで今関係性を築いておくことで、この先の利益に繋がるとも思えない。危険を冒して働いたところで、金銭以上の報酬を得られそうにもない。その条件で都合よく欲しいものだけを手に入れられると思うか?」
 つまりお前は信用できないし今後の役にも立たない、というわけか。そればかりはどうしようもないと早渕は思った。
 蒼月の言う通り、自分に差し出せるものはほとんどない。裏の世界との繋がりが薄い分、対価として提供することで相手の信用を勝ち取る「これだけは失いたくない」というものが何もないのだ。こちらは常に安全圏、相手は最悪命を賭けるようでは、たしかに取引にならない。
「三科規夫本人に貴方を頼れと指示された、と言ったら?」
「世間知らずの研修医を駒に使うなんて、三科も焼きが回ったな」馬鹿馬鹿しい、と蒼月はせせら笑う。
「前提から成立しないな。そもそも俺が三科に信用されるわけがないんだよ。俺を嵌めるつもりならともかく、大事な孫娘の命を俺に預けるわけがない」
 あんたには知る由もないことだけどな、と蒼月は突き放すように言った。
 やはりこの情報屋は、どちらかといえば神津側の人間なのだろう。現状のこの街のパワーバランスを考えれば妥当な判断だ。明確な野心を灯した側につくより、安定と治安維持を掲げる神津寄りに身を置いた方が情報に偏りが出ない。中立を謳うことによって各派閥の深部にはアクセスできないという弱点も抱えるが、そこは何らかの方法でカバーしているのだろう。信頼のおける内通者を複数持っているか、あるいは弱みを握っていいように使っているか。
「まあいい、誰の指図で動いているかなんて興味ない。問題なのはやはりあんたの目的が一切見えてこないことだな。最初はその女の恋人かと思ったが、そういうわけでもないだろう」
「そうですね。僕と彩央里さんはお互い顔は知っている、そんな程度の関係です。病院でたまに挨拶するくらいでしたから」
 この情報屋が、金になるならどんな案件でも引き受けるような、見境のない商売人ではないというのは最初から知っていた。彼の中には金以外の明確な判断基準があるのだろうが、それを決して明らかにはしないことも。
「わかりました、信用が足りないのは諦めます。その代わりに貴方の得られる利益を増やしましょう。それで対価になりますか?」
 努めて冷静な表情を保ったまま、早渕は静かに問いかけた。
 ほとんど空になったコーヒーカップの向こうから、醒めた目がじっとこちらを見つめている。無言の圧力が突き刺さって、手のひらに嫌な汗が浮いた。
「……貴方の探している人について、知っていることがあると言ったら?」
 これで何の反応も返さなかったら、今度こそこちらの完敗だ。
「僕の依頼を受けてくれたら、対価としてその情報を提供します。足りない信用を埋めるために、前情報もいくつか。受けるかどうかは、それを聞いてからでも構いません」
 夜のような瞳に呑まれてしまいそうで、耐えきれず視線を外した。喉が渇いて仕方がない。
 切れるカードはこれで全てだった。もうこちらには何もない、それを気取られてしまったら終わりだ。
「人探しなんざ日常茶飯事で持ち込まれる案件だ、どれのことを言っているのかわからないな」
 情報屋は僅かに目を細めてそう返した。

――ああ、勝った。
「蒼月さん、『マイクロジェスチャー』ってご存知ですか。人が嘘をつく、あるいは本心と異なることを口にする瞬間、コンマ数秒だけ表れる本能的な行動のことです」
 例えば指先や爪先の向き、微笑む唇の角度、眇める仕草、声の調子。その人本来の癖ともまた違う、嘘への本能的な反発行動。
「いくら理性で完璧に取り繕ったとしても、脳はそれより一瞬だけ早く、正直に答えてしまうんです。貴方は言葉と態度で人を翻弄することに長けているから、言葉より一瞬の行動を見た方が真意がわかりやすい。そこだけは人間が決して嘘をつけない、いわば神の作った絶対領域なんですよ」
 最初から全て見ていた。彼はあまりに隙がなく、恐らく人から見られることにも慣れているから、徴候を掴むのは難しかった。
 それでも一瞬の本能は嘘をつけない。彼は明らかに、早渕の言葉に動揺したのだ。
「なるほど、それは勉強になった」
 蒼月が返したのは余裕の笑みだった。ああ、この人は本当に精神が強い。恐らく、無意識までも制御するほどに自己というものを完璧に作り上げ、あらゆるものから深層心理を護っている。
 しかし、だからこその弱みもある。こういうタイプは、一度でも崩れてしまえばあまりに脆い。
「僕ね、本当は犯罪心理学者になりたかったんですよ。でも実際に一線を越えてしまう犯罪者の心理は、わかりやすすぎてつまらない。だから心理学の専門家になるのはやめて、色々な人を観察できる方に進みました」
 その人をその人たらしめるものは案外単純でちっぽけなものだったりする。どうも自分はそれを見抜く才能に恵まれたらしかった。
 見抜いて伸ばしたいわけでも、人材派遣をしたいわけでもない。早渕はただ、それらを眺めていられるだけで幸福だった。時折壊さない程度につついてみて、反応を楽しむくらいだった。
「今からでも遅くないんじゃないか? 大学病院の臨床医を続けるよりお似合いだ」
 カップを置くと、蒼月はゆったりと腕を組んだ。指先がひとつ、ふたつと肘のあたりを叩く。
 心理学的な視点で見れば警戒心、隠蔽心、怒りなどを表す。相手が一般的な人ならその通りの心理状況だと判断していいだろう。
 しかし彼は違う。彼は早渕がそう読み取るであろうことをわかってやっている。早渕が心理学を専門に学んだ人間であること、細かな所作を見逃さないこと。その情報を得た瞬間から、彼ははっきりと態度を変えた。普通ならわからないくらいにさり気なく、しかし早渕には確実に伝わるように。決して踏み込ませはしないという明確な意思でもって反撃したのだ。
――ああ、壊してみたい。壊して、もしもその後にいいように作り変えることができたなら。

「で? 俺に何をさせたいんだ」
 ふいに蒼月の声音が変わった。路地裏に連れ込まれたときに聞いた、ぞっとする冷たさを孕んだ声。
「……怒ってます?」
「そう見えるか?」
 落ち着き払って返したかったが、怖気にあてられて震えた。他人の心理が読めるからといって、自分の心理を完璧に制御できるわけではない。些細なことで容易く動揺するほどに、この心は弱い。
「七澤組内部の次期組長争いを呉山優位に進めるための情報を与える代わりに、彩央里さんを安全に解放すると約束させてほしいんです。貴方の中立の立場を崩すほどのことじゃない。今回は少しだけ呉山に肩入れする、その程度のことです。それに呉山が勝った方が、神津組にとっても益でしょう? 結果的に貴方にも有利に働くはずです」
 こちらの弱みにつけ入られる前に畳み掛けなくてはならない。小手先の交渉術などこの情報屋の前には無駄だろうが、手も足も出せないよりはずっといい。
「先程も申し上げたように、彩央里さんが失踪した原因には呉山圭が絡んでいます。三科一派にとって、一番手を出してほしくなかったところです」
「手を出すったって、その孫娘が勝手に系列のホスト狂いになった挙げ句に、店を仕切ってた呉山に辿り着いて利用されたってだけだろう。言い方は悪いが自業自得だ」
「なんだ、知ってるんじゃないですか」
 話が早くて助かります。安心したように軽く笑ってみせると、蒼月はうんざりだとばかりに首を振った。
「あんたのやりたいことはわかった。持ってる『対価』もな。でもやはり、どうにも腑に落ちないな」
「それは、直感ですか?」
「ああ。悪いか?」
「いいえ。ただ興味深いなと思っただけです」
 多くのものを見てきたであろう彼の、言葉と理論に落とし込めぬ何か悪い予感を、もしも明確に形にすることができたなら。
「貴方が僕の望む結果を持ち帰ってくれたときには、僕も貴方の欲しい情報を全てお話ししましょう」
 そうですね、まずは手付け金代わりに――早渕は口を開いた。
 コーヒーカップはとうに空になっていた。