2 インテンシヴ - 1/2

「何度も言わせるな。そういうのは他所よそをあたれ」
 いい加減にしろと鋭い視線を向けたのと、無駄に沸点の低い男が掴みかかってきたのはほとんど同時だった。
 腕を避けることなく真正面から受ける。確実に動きを止めたいならはじめから急所を狙っておけばいいのに、そこまでの度胸はないからこうして威圧感だけで人を制そうとするのだ。手の出し方ひとつ、言葉の選び方ひとつで相手の程度は知れる。これくらいなら避けるにも値しない。
 力を流すように片足を引いて半身になりつつ、突き倒す勢いで迫ってきた右手首をとって軽く外側に捻った。重心を見失った体を肘を支点にして引き崩す。一瞬の間に男は床に転がり、抜けそうになった肩の痛みに呻いていた。
 倍近く体重のありそうな巨体をてこの要領で押さえ込んだまま、ジャケットの内側に仕込んだダガーに左の指先で触れる。銀の切っ先で首筋につッと赤い線を引いてやれば、立ち上がろうともがいていた男はすぐに静かになった。
「腕力だけで思い通りになると思うな」
 次はもう少し深く抉ってやろうか。耳元で低く囁いてから解放してやる。一瞬で反撃の意思を打ち砕かれた男は何も言わず、ふらふらとドアの向こうへ消えた。外へと向かう階段で足をもつれさせたのか、鈍い音と口汚い罵り声が捨て台詞のように後を追った。

「ッけほっけほ、っ、は……ああ、余計な体力使わせやがって」
 胸の底から溢れるような空咳が鬱陶しい。
 ネクタイを少し緩め、シャツのボタンをひとつ寛げた。胸を突くような息苦しさにいっそ解いてしまおうかと手をやりかけて、はたと動きを止めた。
 階段の方からまた音が聞こえる。先程とは違う重さの靴音だった。タイミングからしてエントランスであの傍迷惑な男とすれ違ったはずだが、何も起こらなかったのならとりあえずはまともな客だろう。そうだと願いたい。
 革靴のたてる音は階段を下りきって迷わず事務所の前までやってきた。ノックの後に聞こえた控えめな声は、予想通りに覚えのあるものだった。

「ああいう人、本当にいるんですね」
 新たに訪れた客の男は怯えた様子で言うと、捕食されることを恐れる草食動物のようにあたりを見回した。もう何度も訪れているというのに、相変わらず常に緊張した面持ちでいる。
「珍しくもない、いくら追い払ってもキリがないくらいにはいるな。ひとりくらい用心棒として雇ったらどうだ?」
「遠慮しておきます」
 男は曖昧に笑うと、出されたコーヒーに口をつけた。ようやく肩の力が抜けた溜息をひとつ落とし、外の冷え切った空気で赤くかじかんだ手をカップで温める。
「貴方の淹れるコーヒーは本当に美味しい。いつか店でも開いたらどうですか」
「はは、喫茶店のマスター兼情報屋、ってか。往年のスパイ映画じゃあるまいし」
「もしそうなったら僕、毎日だって通いますよ」
「どっちを目当てにだ」
「どちらもです、当たり前でしょう」
 ああ、喫茶店で思い出しました。男は顔を上げると控え目に尋ねた。
「先日偶然、駅近くの店にひとりでいらっしゃるのを見かけて……無視するのも何だし声をかけようかと思ったんですけど、ふと迷ってしまって。その……どの名前で呼んだらいいのかと」
 なんだそんなことか、と情報屋は笑った。
「別に声をかけなくていい。俺はいつどこでどう呼ばれようと構わないが、時と場合で名前を変えるような奴と話し込んでるのを人に見られてリスクがあるのはあんたの方だろう」
「ずっと訊きたかったんですが……どうして『蒼月』と名乗っているんですか。名を騙るにしても、どうして明らかに通り名だとわかるようにしているんです? 貴方ほど頭の回る人なら、名を隠すよりも誰かになりすます方がずっと楽でしょう」
 あんたの疑問は尤もだ、と情報屋は可笑しそうに頷いた。
「なりすますなら、その人物にそれ相応の説得力を与えなくてはいけないだろ。戸籍、パスポート、各種届出……たかが人間ひとりの存在を証明するためだけに、一体どれだけの証拠と無意味な契約が必要なんだか。実体のいらない、情報をやりとりするための通過点でしかない俺には、通り名程度で充分なんだよ」
 だからどう呼ばれたって、呼ばれなくたって同じことだ。もう充分答えてやったとばかりに情報屋は視線を外した。
「しかし、名は体を表すと言うでしょう。初めて貴方の名前を聞いたとき、僕は内心とても感動したんですよ。蒼き月、本当に貴方はその名の通りの人だと」
「虚構に真実を見た気になることほど愚かなことはないな」
 もうこの話は終わりだ。情報屋はそれ以上尋ねるのを許さなかった。
「コーヒーを飲みにきたわけじゃないだろ。俺もそんなに暇じゃない」
「そうですね、本題に入らせてもらいましょうか」
 もう少しこの話がしたかったという余韻を引きずりつつ、男は鞄から書類の束を引っ張り出した。
「なんだ、思っていたより少ないな。他社に抜かれたか?」
 あんたのところも大したことはないな、と情報屋は鼻で笑う。
「国政選挙の影で動くのを期待していたのですが……雲隠れしたのか本当に動いていないのか、とにかく動向が掴めなくて。恐らく他社も同程度です」
 男の持ってきた紙束の一枚目には朱のインクで大きく〔持出禁〕〔部外秘〕と判が押してある。情報屋は目もくれずページを開いた。
「また人物名の羅列か。飽きたな」
 足を組み直しつつ、書類に視線を落として呟く。目元にさらりとかかった横髪を無造作に掻き上げて、彼はひとつ息を吐いた。
「僕も飽きました。……すみません、あまり力になれなくて。僕が蒼月さんから頂いているものは、もっとずっと大きいのに」
「いつか特ダネで返してくれるんだろ」
 彼の目は紙の左上から右下へと流れる。一枚にかける時間は長くても数秒で、読んでいるというよりは流し見ているという方が近かった。
 頭上をゆっくりと回るシーリングファンの駆動音に、紙を捲る囁きが混ざる。それ以外の音を立てることさえ憚られる雰囲気に呑まれて、男は意味もなくカップに手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返した。

「大体こんなものかな」
 コーヒーカップの底はまだ見えない。最後まで目を通すのにかかった時間は僅か数分だった。情報屋は書類を男に返すと、軽い頭痛をおさえるように片手で目元を覆った。
「たったそれだけ見ただけで全て記憶できるなんて、何度目の当たりにしても人の為せる技だとはとても思えません」
「大袈裟だ、少し器用なだけさ」目を閉じたまま、呟くように情報屋は答える。
「どうやっているんですか? 僕には魔法か超能力にしか見えないんですけど」
「だから大袈裟だって言ってるだろ。覚えようとするというよりは……この瞬間に文字情報を『見た』ことを意識づけるというか。写真を撮るイメージに近いかな」感覚でやっていることだから上手く説明できない、と情報屋はぼやいた。
「訓練なさったんですか」
「いや……特には。元々無意識にこういうやり方をしていたのを、ある人に目をつけられて自覚してから多少精度が上がった程度だ。もっと器用な奴はこれくらいの分量ならざっと一瞥しただけで読みこなすし、何年経ってもついさっきのことのように思い出せる。俺はそこまで完璧にはできない。どこかに記憶しているとはいえ、引き出してくるのに少し時間がかかることもあるしな」
 情報屋は怠そうにそれだけ言うとソファを立った。
「……っ」
 奥にある事務机の方へ向かおうとして、ふと重心を失ったかのように足元をふらつかせる。咄嗟に片手をソファの角についたまま、彼は俯いて目を閉じた。は、とひとつ浅い息を吐き、空いた手で強く目元をおさえる。
「大丈夫ですか」
 問題ない、と彼は短く答える。動きを止めたのはほんの数秒のことで、彼は机まで辿り着くと、引き出しから何かを取り出して戻ってきた。
 あんたにもひとつやるよ、と戻りしなに投げて寄越す。綺麗な放物線を描いた物体は狙い違わず男の手に収まった。昔ながらのミルクキャンディだ。
「相変わらずベトナム戦争絡みの話ばかりだな」
「まあ……いまだに一番の関心事ですからね。この国に出入りする帰還兵の数も徐々に増えているとか」
 ソファに座り直し何事もなかったかのように話を続ける情報屋に、男はやや面食らいながらも答える。
「さて……三ページの四行目と、十一ページ右中央あたりに同じ名がある。この間の外交官リストにもあった。同姓同名と考えるより、同一人物と見る方が自然だ」
 今朝食べたものを訊かれて答えるかのように情報屋は言った。
 男は彼の言葉を手帳に書きつけていく。鵜呑みにするわけにはいかないので後々信用のおけるデータや資料と改めて照合するのだが、間違っていたことはこれまでなかった。
「この資料を根拠とすると、これまでの僕の取材内容とは矛盾する点がいくつか出てきて……正直僕はこの資料自体を少し疑っているのですが、信用度はどの程度だと見立てられるでしょうか」
「四割、よくて五割。改竄とまでは言えないが、一部に意図的な隠蔽があるのは気づいてるだろ。あんたがこれまで地道に積み上げてきたものの方が信用に足るんじゃないか」
 仕事ぶりを認められたようで思わず少し照れ笑った男に、情報屋はやれやれと首を振った。
「六ページ目の須藤という男、こいつは中国人だ。本名は俚明リーミン、須藤は偽名。パスポートもビザも偽造しているから、そう簡単には炙り出せない。それとこのページに載ってる奴の大半は、柳井組と関係がある。生半可に取材なんか申し込もうものなら、……まあ間違いなく警戒されるだろうな。ある日の帰り道、路地裏で襲撃されても責任は取れない」
 そこまで一気に話して、情報屋はひとつ息を吐くと、髪をくしゃりと掻き回した。宵闇のような目元が隠れて、張り詰めた気配がふっと緩む。
「……蒼月さん、」
「なんだ」
 先程から傍目からでもわかるほどに呼吸が浅い。不安を覚えて男は思わず口を開いた。思えば事務所を訪ねたときから顔色が優れなかったような気もするが、そんなことを正直に口にしようものなら、今すぐここからつまみ出されるだろう。
「いえ……何も」
 理由がどうあれ、彼は自ら線引きした以上の領域に土足で踏み込まれることをひどく嫌う。
「今更なんだがあんた、本業は外報記者だろう。俺のところにばかり入り浸って仕事になってるのか」
 男の心配を知ってか知らずか、情報屋は話の焦点をそれとなく男自身へと向けた。
「知っての通り俺はどちらかといえば国内情勢、さらに言えば政治と裏通りの橋渡しがメインなわけだが」
「心配してくれているんですか?」
「まさか。お得意様が仕事を干されたりしたら、貴重な情報源が減るだろ」
 情報屋は感情の読めない目をして言う。カリ、と飴玉を噛んで、意地悪な質問の答えを待つようにゆったりと腕を組んだ。
「蒼月さんの情報はなんというか……血が通っているんです。他の人とは違う」
 情報屋は興味深げに男を見た。
「集めた情報をただ切り売りしているだけじゃない。蒼月さんの提供する情報には、なんでしょう……上手く言い表せませんが、貴方の命を感じるように思う。記者がよく言う、『魂』というやつでしょうか」
 やや熱の入った調子で男は語った。そんな男の様子を、情報屋は薄笑いで眺めている。
「命、ねえ」
 否が応でも削れていくから混ざるのは仕方ないか。思わず零れた言葉の意味を、何も知らない男が推し量るのは難しかった。
「あんたの新聞記者としての勘は認めるよ。だが勘ばかりに頼るようじゃ、いつかきっと痛い目を見る」
 自分でわかっているだろ。口調は半ば笑ったままだったが、涼やかな目ははっきりと男のことを刺していた。彼自身も意識しているかわからない深いところを射貫いていた。
「……精進します」
「早く使える記者になれよ。まあ、今でも十分優秀だとは思うが。さっさと出世して、安全なところに逃げてしまえ」
 あんたみたいな素直すぎる人間が生きていくには、それが一番だ。情報屋はそう言うと、空になったカップを下げた。帰れと口に出しはしないが、それが合図なのだと知っていた。
「応援してくれるのは蒼月さんだけです」
「俺は使える情報源がほしいだけだ」
「嘘です。貴方は時々、正直じゃない」
 あんたも随分と言うようになったな、と情報屋はほんの少し視線を緩めて言う。
「正直だったことなんてないな。汚れなきままでは生きていけないのさ」
 だから、これ以上は近づくな。男にはそう言っているようにも思えた。
 その先に踏み込めたことは、これまで一度もない。許されていないのではなく、単に自分にその度胸がないからだということも、度胸のない者を彼が許しはしないということもわかっていた。