1 ハルシネイション - 2/4

 やっとの思いでホテルとは名ばかりの半分朽ちた建物に身を寄せ、十時間ぶりに煙草に火をつけた。
 サイドテーブルには共に行動してきた後輩が、精根尽き果てた様子で伸びている。
 格闘技でもやっていそうな見た目に反して、こいつは意外と繊細だ。逃げ続けるだけじゃどうにもならない、僕達は失敗したんです。そう呻くように呟いて、彼はテーブルに額を擦りつけた。目にしてきたものがありありと脳裏に浮かんでしまうのか、ルームサービスとして用意されていた食事に手をつけようとはしなかった。
「今更怖気づいたか?」
「いいえ。ただ想像していたよりも精神的に摩耗しただけで」
 あなたは平気なんですね。漂う煙を横目で追いかけながら彼は言った。
 平気に決まっているだろう、これくらいのことは予想していた――そう返してやったのは僅かながらの優しさだ。最早運も策も尽きたなどと言ったらそれこそ絶望しかねない。気慰めに大言壮語するくらいしかできることがなくても、今この後輩を失うわけにはいかなかった。こいつまでいなくなったら何も信じられなくなる。
 建てつけの悪い窓を無理矢理にこじ開けたら錠ごと取れた。こんなところにまで雨水が入り込むのか、錠のネジは錆が回って変色している。室内に滞る煙を追い出せる分だけ僅か隙間を作れば、途端に古い油の臭いが侵入してきた。これなら開けない方がマシだ。
 向かいの建物の壁に部屋の灯りがぼんやりと反射している。向こうには似たようなつくりの窓が並んでいて、そのどれもに分厚いカーテンが引かれていた。
 建物の中では賭博が行われているのか、耳をすませば人々のざわめきが漏れ聞こえてくる。
――手ェ切って、勝負。さァ張っておくんなはれ――合力の掛け声をきく限り、行われているのは手本引てほんびきだろうか。本場は西だというが、この街でも闇に紛れて脈々と行われているらしい。
 自分達のこの行動が博奕ばくちなら、状況は今どのあたりか。勝機はこれからか、それとも負けを悟って早々に手引きにした方が命までは取られずに済むか――もうとっくに手遅れか。
「最後に一度だけでいい、僕に賭けてくれませんか」
 もう何をしても遅いなら、一度だけ。こちらの思考を読んだかのようなタイミングで、後輩が声を上げた。
「最後にって、もう諦めてるじゃないか」
「どうせ負けるなら、終わりくらい無様に足掻いたっていいでしょう」
 どうせ負ける、今回の場合賭けているのは己の命だから、つまりは。
「座して待つのだけは嫌です、耐えられない」
 彼は項垂れたまま、しかしはっきりと言った。
「他でもないお前が検証に値すると考えることなら、どこまでだって付き合うさ」
 賭け事も研究も、焦りは禁物だ。全てはじっくりと根拠を、事実を積み重ねることから始まる。途方もない数の実験とエラーの果てに活路はある。
 しかしそんな余裕すらもないときは?
「この街には優秀な情報屋がいるらしい」
 彼は囁くように言った。もう他に手はないと覚悟を決めて、しかし握った拳は微かに震えていた。まだ迷いを捨てきれないでいるのだ。
「そいつは情報を売買するだけじゃない。必要だと判断すれば――どの組織の、どんな取引にも手を貸すと。半分ブローカーのようなものだとか」
 まるで、欠けた最後のピースを自ら嵌め込みにいくように。彼は小さく呟くと、神に祈るように両手を組んだ。
「情報屋? 他人の掴んだデータに命を預けるのか。お前を疑うわけじゃないが、どうして信用に値するといえる?」
「明確な根拠は示せません。だから賭けだと言っているんです。ただ――そいつの信じるものは、善でも悪でも人の心でも信仰でもなく、『真実』のみだと」
「……なるほど。その情報屋を信じるわけではなく、そいつの真実を求める貪欲さに賭けてみるというわけか」
 信用できるのは正しい根拠データとその解釈あつかいだけだと、自分達は知っている。
 世界がゼロとイチからできている理由に神を挙げる理論を理論と認める気はないが、神がゼロとイチからできていることの証明ならば、最後に賭けるには相応しい。

 この街は狭いようで広い。開発とバラックの取り壊しが同時並行で進む南側の駅周辺と、対象的に無法地帯と化した北側の歓楽街。駅を離れて東に行けば、空襲を逃れた屋敷がかつての宿場町の面影を残して連なっている。昔浄水場のあった西には、数年前から大企業や官庁の高層ビルが建設されはじめて、今まさに様相が大きく変わりつつある。
 そのどれにも属さない曖昧な中心部には、闇市の頃から取り壊しや建て増しを無秩序に繰り返した結果できた簡素な平屋や低層住宅が、柱や壁を共有するような具合で群生していた。要塞のようになった建物群は複雑に入り組み、光を遮り汚物を溜め込み、土地勘のない人間には全体像の把握すら難しくさせていた。
 最後に賭けるも何も、その情報屋とやらに会えないことには何も始まらない。名前も連絡先も、そもそも本当に実在するのかさえ不確かな状態でできることといえば、地道に人に尋ねて回ることくらいだった。
 ひとところに留まって怪しまれないよう場所を変えつつ、聞き込みのできそうな人間を見つけては声をかける。闇雲に逃げ回っている間は気づく余裕もなかったが、一見乱然としたこの街にもある程度の法則性はあるようだった。地上の路地を進むよりも建物同士を繋ぐ地下道を通る方が、効率よく動ける上に人目にもつきにくいこと(ただしハズレの地下道を引いてしまうと辺り一面阿片臭がひどかった)、背の高い建物の上の方ほど金のある人間が暮らしていて、日のあたる部屋に住居を構えることが一種のステータスになっていること。バラックがそのまま上に積み重ねられたような集合住宅の入り口にはよく子供がたむろしていて、愛想よく話しかけて菓子を与えれば、大抵のことには素直に答えてくれること。薬物で脳みその大半が吹き飛んでしまっているような奴や、懐から銃やナイフが覗いている奴は、北側の歓楽街に集中していること。
 何度か追っ手と思しき影も見かけたが、彼等もあまり土地勘がないのか、探す態度に執念じみたものは感じなかった。
「ああ、その情報屋なら知ってるよ」
 道端で食べ物を売っていた老人は、こちらが尋ねるなりにやにやと正体不明の笑みを浮かべながら答えた。痩せて飛び出した両目で、値踏みするようにじろじろと上から下まで眺め回し、得心がいったように頷く。
――奴は目立つから見ればすぐわかる。あんなのはこの街に二人といないさ。まァ、わからなかったとしたら、あんたらがそこまでの人間だったってことサね。
「やめときな。あんたたちがこうして嗅ぎ回ってることは、もう筒抜けだろうから」
 端の欠けた階段に腰掛けて客引きをしていた女は、嗄れた声でそう言った。目尻と唇に鮮やかな紅をひいた美しい女だった。どこに行けばその情報屋に会えるかと訊いたが、首を左右に振るばかりだった。煙草一本くれたら思い出すかも、と言うので差し出したが、たっぷりと一服した後に大麻煙草でないと思い出せないと屁理屈をこねたので諦めた。
 屋台で食事中の若者達、年齢も性別も不詳の物乞い、何故か大量の犬を連れた男、新聞紙を被って寝る老婆、ひたすらゴミを集めては別のゴミ山に移す人、幼い妹を背負った少年――誰に訊いても有力な答えは返ってこなかった。唯一確証が持てたのは、その情報屋が男だということくらいで、後は尾ひれが山のようについた不毛な噂や明らかな出鱈目ばかりだった。
「尋ねたうち何人かは居場所を、あるいはそれ以上のことを絶対に知っている。知ってて教える気がないんでしょう」
 気味が悪い、と後輩は吐き捨てるように言った。他人同士のふりをして、その実ひとり残らず繋がっているように思える。背を向けた瞬間一斉に笑い出す幻覚さえ見えそうだった。
「このあたりに住む人間は、ほぼ全員神津こうづ組の息のかかった者だろう。敢えて教えないってことは、その情報屋もまた神津の人間なのか?」
 戦後の闇市がひとつの街になるまで膨らんだ背景には、土着の人間により組織された自警団の存在があった。神津組と名乗った彼等は、無能な警察と国の代わりに地割を管理し、焼け跡にバラックを次々に建て、武力を持たない一般庶民を警察官や外国人の理不尽な暴力から守った。
 先の大戦から三十五年、目立つ傷跡や記憶が随分と薄くなった今でも彼等の影響力は健在で、この街で暮らす者は何らかの形で彼等の庇護、あるいは権力の傘の下にいる。
「いいえ、聞いた限りでは完全に中立だとか。このあたりに拠点を構える以上、隠れ蓑として利用はしているのでしょうが、組の者ではないようです」
「『聞いた限り』な。もう何を信じていいのかわからなくなってきた」
 仮に情報屋が神津の息のかかった人間だとすれば合点がいく。外から来た不審な人間に好き勝手されないよう、街の人間が協力して引き合わせないように動いているのだ。あるいは情報屋が何らかの方法で住人に口封じをしているか。どちらにせよ、何らかの意思が働いていることは確実だった。
「いっそのこと誰か脅して無理矢理に聞き出すか」
「恐らくそれをやったが最後、たとえ運良く相対できたとしても有益な情報は何ひとつ売ってくれないでしょうね。敵意があると思われるのはよくない」
「クソ、八方塞がりかよ」
 無力感に苛まれて煙草に手を伸ばした。さっきの街娼にくれてしまって残りが心許ない。とはいえこの街で売られている、何が混ぜ込まれているかもわからない銘柄を試すのは気がひけた。北側一帯でゾンビのようになっている廃人共の仲間入りは勘弁願いたい。
 煙が真っ直ぐに空へと立ち上るのを見て、今いる場所はこの街中でも珍しく開けた場所だと気がついた。向かい合う建物の距離がほどよく離れていて、向かい合う窓と窓の間で物干し用の紐が綱渡しになっている。万国旗のようにはためく洗濯物を眺めながら、こうして意味もなく空を見上げるのは久々だと思った。
 傾きはじめた西日がくすんだ壁に影を落としている。その影の中にぽつんと佇む少女の姿があった。小さな木のテーブルを建物の壁沿いに置き、そこで端切れや毛糸で作った小物を売っているらしい。
「お嬢ちゃん、その小銭入れをひとつくれるかな」
 商品を指差すと、少女はこくりと頷いて、商品の前に貼られた拙い手書きの値札を指し示した。書かれているよりも多めに渡して釣りはいらないと言うと、もう一度小さく、今度は少し嬉しそうに頷いた。恐らく十に満たないであろう少女だが、こうして日銭を稼ぐことには慣れているようだ。
「お嬢ちゃん、このあたりで情報屋と呼ばれている男を知らないかい」
 少女は小首を傾げた。継ぎだらけの簡素な身なりをしてはいるが、細い両肩の上の三つ編みは綺麗に結われている。太陽に色素を吸われたはしばみ色の髪が揺れて、リボンの先についた花飾りが壊れかけの風鈴のような音をたてた。
 少女は細い指先を目の前に突き出して首を傾げた。もう一度、と言いたいらしい。美しく化学反応を起こしたような、薄く透き通った青い瞳がじっとこちらを見上げていた。異国の生まれなのか、もしかしたら一度では日本語が聞き取れなかったのかもしれない。
「こんな子に訊いてもわかりませんよ」
「どうだか。試すくらいはいいだろう」
 冷めた態度の後輩をよそに、同じことをもう一度ゆっくりと尋ねる。
 少女は考え込んで自分の靴先を見下ろした。迷っているのか、それとも何かを思い出そうとしているのか。しばらくそうして動かなかったので思わず急かしたくなったが、一縷の望みにかけてじっと待った。
 たっぷり一分ほどの躊躇いの後、ようやく少女は顔を上げた。足元に丸めてあったボロ布をテーブルの上に被せる。それから何も言わずに歩き出した。
「おい、ちょっと待ってくれ」
 少女は答えなかった。数歩先で立ち止まり、来ないの、とばかりにこちらを見つめてくる。どうやらついてこいと言いたいらしい。
 これが御伽話なら行き着く先はハッピーエンド、恐怖映画ならデッドエンドだ。どうすると後輩に判断を仰ぐと彼は深く息を吐いて、行くしかないでしょう、と諦め半分に言った。

 少女の歩幅は小さく、速度もゆっくりだったが、足取りに迷いはなかった。無言で歩く少女の後を据わりの悪い顔をしてついていく男二人という絵は、なんとも奇妙に見えたことだろう。しかしすれ違う住人は何も反応を返さなかった。これまで遠慮容赦もなく余所者を見る目を向けられていたというのに、まるで少女に魔法をかけられてこちらの姿がすっかり見えなくなってしまったかのようだ。
 少女は閉ざされたドアを躊躇いもなく開け、明らかに誰かの生活領域と思しき部屋を、駅の改札でも通過するように通り抜けていった。少女は完璧にこの街の構造を知り尽くしているようだった。自分達でも相当あちこち歩き回ったと思っていたが、とんだ思い上がりだった。
「どこまで行くんだい」
 今この瞬間に少女が姿を消したら、自分達は永遠にこの薄暗い迷宮から抜け出せなくなるのではないか。そんな悪夢めいた恐怖に囚われて声をかけたが、少女は振り返りもせず黙々と歩き続けるばかりだった。せめて一瞬でも立ち止まって笑顔のひとつでも見せてくれたら、いや頷くだけでもしてくれたらよかったのに。
 十分ほどそうして歩き続けただろうか。ひとつの建物の前で少女はようやく足を止めた。
「ここかい?」
 少女は頷いた。そこは古ぼけたコンクリートの建物だった。同じような造りの棟が三つ横並びに建っていて、それぞれは独立しているが、互いに支え合うように壁と壁とがぴったりくっついている。隙間は猫も通りたがらない狭さで、ひとつが崩れたら隣も巻き込んで共倒れしそうだった。
 四角い枠のようなエントランスから中を覗くと、人ひとりがやっと通れそうな狭い廊下と、上へと続く階段が見えた。壁も床も全てコンクリートでできている。凝った装飾も気の利いた意匠もないが、少なくとも廃材で組み立てたバラックよりは随分とまともな造りのようだ。ところどころ天井からぶら下がった裸電球ははっきりと建物内を照らすには心許ない明るさしかなく、廊下の先がどこまで続いているのかは見通せなかった。
 少女は向かって一番右の建物に入っていった。後ろをついてエントランスをくぐって、すぐに違いに気がついた。この建物だけは階段が下へも伸びていた。
 階段に足を下ろすと、思っていた以上に音が反響した。深く息を吐き出せば、その音までもがぞわぞわと響く。足元が暗いのを補うべく、気がつけば壁に手を沿わせていた。常に暗がりの中にあるコンクリートはずっしりと冷たく、入ってくるなと拒絶されているような気さえしてくる。
 階段を下りきると廊下が続いていた。途中に部屋はなく、ただ真っ直ぐに奥へと続いている。地下らしくそれなりに湿気は溜まるようだが不潔な気配はなく、仄かに冷たい夜の気配がした。
「シャイニングみたいだ、」背後を歩く後輩がぽつりと呟いたので、やめてくれと思わず言い返した。
「俺は時計じかけのオレンジの方が好きだ」
「グロテスクなものは苦手です。というよか僕はキューブリックではなく、キングの原作の話をしたつもりだったんですけど」
「どっちでもいい。この状況でホラーな話はやめてくれ」
 両の壁が迫ってくるようだと嫌な妄想に取り憑かれたタイミングで、ホラー小説の名を挙げるのは勘弁してほしい。こんな場でなければ、モダン・ホラーも読むとは意外だなと軽口のひとつも返してやったところだが、そんな心の余裕はとうに失われていた。
 廊下の突き当たりまで進んで、ようやく少女は振り返った。
 ここ、と人差し指で示した先にはシンプルなドアがひとつあった。表札も看板もない。人の気配が意図的に一切排除されたようにも見えた。
 少女は小さな拳で、つるりと丸いドアノブの少し下あたりを、コンコンコンコン、と規則的に四回ノックした。瞬きひとつの間を空けて、コンコン、と今度は控えめに二回。
 錠が解除されるささやかな駆動音が聞こえた。こんなスラム街の中心で電子錠に出会うとは思ってもいなかった。驚いている暇もなく、少女はゆっくりとドアを開けた。