飛行機雲が空を断裁していた。
上下に切り裂かれた青のどちら側に立っているのだろう。まだ生きているのか、それともすでに彼岸のものを食ってしまったのか。気づけば両足が溶けて宙に浮いている。翼など初めから生えていなかった。それでも必死に藻掻くのは、何も為さずに死ぬのが怖いからだろう。
流れ着く先を見失った孤独に呑まれそうになる度に、泡のような悲しみが浮かぶ。ああ、もしも魚になれたなら、全てを越えて泳いでいくのに。
辻堂の駅は閑散としていた。七月の上旬、数年前なら海水浴客や釣り人で賑わっていただろう季節にも拘わらず、駅は乾涸びた寂しさを晒している。海にほど近い駅は今や、北にある衣糧廠に向かう軍人と、そこに動員された学生が使うだけの閑散とした場所と化していた。
歩廊の端に、紫暮一國はひとり降り立った。東京では聞いたことのない物悲しい鳥の声が頭上を行ったりきたりしていて、それが一層惨めな気分にさせた。初めて訪れる地への感慨は湧かない。戦況が悪化してきてからというもの、どこへ行っても大体同じ光景ばかり目にする。誰も彼も薄汚れた暗い顔をして、防空訓練や明日の配給のことばかりを考えているのだ。それは紫暮とて例外ではなく、見知らぬ田舎駅でぼんやりと思うのは、ここにはまだ食べるものがあるだろうかということだった。都市部はどこも慢性的な食糧難で、乏しい配給を頼りにするしかなかったが、中学教師の職を失うと同時に信用も失った独り身の男に許される分け前は微々たるものだった。お国の役に立たぬ者に食わせる米はないということらしい。着物や本を金に換えて食べ物を求めたが、端金では僅かな芋しか手に入らなかった。それも一週間で食い尽くした。前線はもっと大変だ、だから我慢しろというが、それならばこの戦はとっくに負けている。誰もが心のどこかでそう思っていただろうが、誰も口にはしなかった。できなかった。
降りた歩廊に東京方面へと向かう列車が滑り込んできた。待避線で下り列車が過ぎるのを待っていたのだろう。降車した数人は一様に疲れた顔で足早にその場を去り、車内で座席に沈んだままの客は駅名標を見に首を上げることさえしなかった。
ぐずる子供の声がする。見れば、先頭車両のそばにささやかな出征の見送りが立っていた。出来る限り綺麗に見えるよう手入れをした国民服を身に纏う男の足元に、まだ三つか四つくらいの男の子がしがみついている。傍らには男の妻と見える女が立っていた。夫婦の間に会話はない。ただ黙って、互いに目と目で語り合っていた。子供はズボンに顔を押しつけたままよくわからない声を上げていた。
駅員が発車の笛を二度鳴らす。急かすような、それでいてもう少しだけなら時間をやると言いたげにも聞こえる妙な残響が後を引いた。女に何度か諭されて、男の子は父親の服から手を離した。そこだけ皺になったズボンを見た男の顔が泣き出しそうに歪む。固く握り締めていた拳がふっと緩んだ。ああ、妻子を最後に抱き締めるつもりか。あまりじろじろ見るのも悪い気がして、紫暮はそっと目を逸らした。
しかし一度は緩めた拳を、男は再び固めた。掌に思いを封じ込めるかのようだった。そのまま前を向き直ると深く一礼する。妻ひとり子ひとり、幟も派手な送別もない寂しいものだった。三度目の笛で男は顔を上げると列車に乗り込み、それきり振り返らなかった。ドアは閉ざされ、列車は滑るように走り出しすぐに見えなくなった。妻子はしばらく見送っていたが、やがてとぼとぼと帰っていった。おとうちゃん、とまだ満足に言えもしない舌足らずな男の子の声が長く耳にこびりついていた。
気がつけば歩廊にひとり取り残されている。いつまでも立ち尽くしていたところで何も始まらない。今より悪いことはないと開き直る清々しさと、遣り切れない虚しさがごたまぜになった胸中はひたすらに混沌としていた。紫暮はぼんやりと空を見上げた。心が行き場をなくしたとき、どうにも息が詰まって仕方がないときの癖だった。しかし誰かに指摘されたことはなかったから、それを癖だと認識してはいなかった。
トタン張りの屋根の破れ目から青が覗いていた。車窓から見えた飛行機雲は霧散していた。
軽い鞄ひとつを携え改札を済ます。外から見る駅舎は中々に立派ななりをしていた。新橋駅あたりを手本に造られたのか、素朴な田舎には似合わぬ擬洋風の洒落たもので、小さいながらも屋根付きの停車場を備えている。辻堂駅と書かれた看板のペンキはまだ新しく見えた。微かに潮の気配を孕んだ風が頬を撫でる。東京よりも涼しいのは海の存在ゆえだろうか。どうでもいい、とあてどもない無意味な反芻にけりをつけて、紫暮は集落へと続く道を歩き始めた。
事前の便りには一本道だから迷うことはないだろうとあった。確かに迷いようがなかった。白っぽい小石と灰色の砂利混じりの道は、両側に民家や畑が点在する他に何もない。空を遮る建物も車のたてる土埃もなく、空気はさっぱりと澄んでいた。常に強い海風が吹く土地だと聞いていたが、防砂林に遮られているのかここまでは届かない。そよそよとシャツを抜けてくる風に潮を感じる程度だった。
想像以上の農村ぶりに驚きつつ、どこかほっとする思いも浮かんでいた。ここでならやり直せるかもしれない。誰も自分のことを知らない土地でなら、もう一度。道端の畑には若い穂をつけたとうもろこしが並んでいた。少なくともここにはまだ食べるものがある。それも心が凪いだ理由のひとつだった。
十五分程歩いただろうか。低い生垣が途切れて、蔦の絡まる煉瓦造りの門の向こうに白壁の大きな建物が見えた。額に滲み始めた汗を拭う。ここが今日からの新しい職場だった。
広大な敷地を持つ学校のわりには簡素な門構えで、門柱だけがあって扉はない。足元は門の先からすぐ草っ原になっていて、校庭というよりは西洋屋敷の庭園といった風だ。草を踏むとさくさくと乾いた音がして、青いバッタがぴょんと跳ねた。その場でぐるりと見渡してみる。門から真っ直ぐいったところに二階建ての白壁の校舎が建っていて、その周囲に小さな平屋がぽつぽつとある。どれも長屋を一回り縮めたような見た目で、南側に大きくとられた窓に布団や洗濯物が干してあった。建物の間に道はなく、程良く手入れされた野原が広がっている。土地は北に向かって緩やかに隆起していて、木々が生い茂りちょっとした森のようになっていた。登り始めるあたりにノウゼンカズラが咲きこぼれていて、その奥にも何棟かの建物が見えた。
妙に綺麗で現実味がなく、突然別世界に彷徨い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。清らかで静謐な私立の学校。療養所という言葉が過る。強ち間違いではなかった。ここは国民学校の名を冠してはいるが、一般的な学校とは趣を異にしていた。よく風邪をひいたり生まれつき四肢に不自由があったり親の肺病気質を受け継いでいたり、そういった理由で普通学級で学ぶのが難しい子供を集めて寄宿生活をさせているのだ。つまるところ虚弱児のための学校だった。立地的に東京からの生徒が多いが、このような取り組みをしている学校は全国的にも珍しいので、噂をききつけて遠方からわざわざ入学させる親もいるという。
校舎の入口近くで草花に水をやっている男がいた。鼠色の作務衣姿で、左手にブリキのジョウロをぶら下げている。格好からして使丁だろうか。しかし他に人影は見当たらず、迷った末に恐々と声をかけた。
「すみません、今日からここでお世話になる紫暮と申しますが。教員室があるのはこの建物ですか」
男は水やりの手を止めて振り向いた。
「え? ああ、君が今日からの人か。早いね」
意外に若いので驚いた。働き盛りの男はみな戦地に送られたものだとばかり思っていたが、よく日焼けした健康的な肌を持つこの男は不惑を越えているようにはとても見えない。何らかの理由があって地獄行きを逃れたのだろう。以前は訓導の免状を持っていれば召集されなかったが、短期現役制度は戦況の悪化とともに廃止された。誰も彼もペンを鉄砲に持ち替え、本心からそう思っていたかは知らないが皇国のため力を尽くしてまいりますと宣誓し、教え子らに激励され旅立っていった。そして多くは二度と帰らなかった。
と、ここまで一息に考えたところで我に返る。自分も同じではないのか。自分も働き盛りの、しかし国のために戦うことはない男のうちのひとりではないのか。軍属でも官吏でもないのにこんな時勢に国に留まっていられる男は、大抵口外しにくい事情を抱えている。たとえ本人に全く非がないとしても、あいつはどこかおかしいに決まってる非国民め、そんな偏見に満ちた目でしか見られなくなる。そんな無言の圧力を何より不快に思っておきながら、自分も無意識に他者に同じ眼差しを浴びせていた。
「悪いが今みんな出払っててね、昼までは俺しかいないんだ。ここで待つより海に行った方が話が早いだろう」
ここから真っ直ぐ、十分ほどで浜に出る。紫暮の無遠慮な視線など気にする様子もなく、男はジョウロを持ったまま南の方をさした。
「海ですか? てっきり授業中だとばかり」
「海で授業さ。ここじゃ珍しくもない」
そう言われても紫暮には海でする授業というものの想像がつかない。遠泳でもしているのだろうか。それなら訓導は子供を連れて泳ぎに出ているかもしれない。そんなところに初めまして今日から世話になります、などと挨拶に現れるのは迷惑ではないだろうか。初日は午後に着くと伝えたのはこちらの方だし、しばらく時間を潰して待つべきか。
「まあ、行けばわかる。俺が説明するより見た方が早い」
戸惑いを見て取ったか、男は少し笑って言った。僅かだが言葉に西方の訛りが混ざっている。懐手をした右の袖が夏風に揺れていた。
行けというならその通りにするしかない。男に礼を言って校門を出ると、来た道をさらに南へと向かった。やはり誰一人としてすれ違わない。蝉の声と草木の揺れる音だけが耳に届く。生まれてこのかた都会育ちの身には馴染みのない感覚に背中のあたりがずっと落ち着かない。知り合いもしがらみもない土地に行きたいと望みつつ、いざ本当に叶うと途端に不安でいっぱいになる。自分がここに居ていい理由より居てはいけない理由の方が多いに決まっている。今自分が踏みしめている大地は、他の誰かが永久に帰らぬ覚悟で飛び立った場所でもあるのだ。
踏みしめる足元の感覚が変わる。防砂林の中に入ると道は黒っぽい砂に変わった。今やはっきりと波の音が聞こえる。松のトンネルの向こうは眩しく白んでいる。ふいに強い風が髪を後ろへ吹き飛ばして、真っ白な光が視界を灼いた。
目を開ける。眩しい世界に輪郭が戻ってくる。
そこはもう砂浜だった。太陽に暖められた黒い砂がどこまでも広がっている。際限なく打ち寄せ退いていくのは海が呼吸する音だ。大きく吸って、吐いて。気づけば波に体を合わせていた。
向かって左には江ノ島が浮かんでいる。そのずっと先には三浦半島が霞んでいる。海岸線を逆に辿っていくと、先は遙か伊豆半島まで続いている。ここは相模湾のちょうど真ん中あたりに位置しているのだった。
伊豆の方向、海中に魚の背びれのような形をした岩が突き出していて、その向こうに見事な富士の稜線が見える。そして、正面は水平線まで遮るものなく開けていた。空と海とが溶け合う境目を、船影が西へと移動していく。手前に浮かぶ釣り舟は忙しなく上下していた。静かに見える海だが、沖は波が高いらしい。眺めているとつられてこちらの足元まで揺らぎそうになる。軽い目眩を感じてゆっくりしゃがみ込むと、少し湿っぽい太陽のにおいがした。温かな砂に指を潜らせる。想像していたより滑らかで、いつまでも触れていたくなった。ぷつぷつと空いた穴から小指の先くらいの蟹が飛び出してきて、半透明の体をちょこまかと動かして砂中へ消えた。
波打ち際に子供の集団が見える。十歳くらいが十五人ほど集まって、水をかけ合ったり砂を掘ったりしてはしゃいでいた。みな半袖半ズボン姿で裸足だ。波を被らないあたりに靴が行儀良く一列に並べてあるのが微笑ましかった。
子供に交じって一人背の高い影がある。脱いだ詰襟を腰に巻いて、足元は子供と同じく裸足だった。誰かの兄だろうかと思ったが、一緒に遊んでいるだけに見えて、遠くへ行き過ぎた子を呼び戻したり派手に濡れた子に手拭いを渡したりしている。どうやら彼がこの集団の監督役らしかった。やがてじっと見ている紫暮の存在に気がついて、輪を離れて近づいてきた。
「僕達に何か御用ですか」
人を疑うことを知らなそうな穏やかな笑みを浮かべた青年のシャツの襟元には柏葉と橄欖の校章がついている。場違いな出会いに一瞬驚いた。一高の学生だ。しかしその割にバンカラな感じはなく、いかにも育ちの良さそうな印象だった。
「君達はそこの学校の生徒ですか」
「そうですけど……失礼ですが貴方は? この辺りの方ではないですよね」
置いてけぼりを食らった子供達が彼を呼んでいる。何かの遊戯の途中だったのか、次は兄ちゃんの番だよといった感じのことを口々に叫んでいた。少し待っててと彼は返したが、声は波音にかき消されて子供達のところまでは届かなかった。
「今日から赴任してきた紫暮と申します。学校に向かったら、みんな海にいると言われまして」
青年の顔に理解の色が浮かぶ。少しほっとしたようでもあった。
「ああ、貴方が。話は先生から聞いています。遠路はるばる……その上わざわざこんなところまでご足労おかけしまして」
「いや、こちらこそ授業の邪魔をして申し訳ない」
いくら呼んでも彼が戻らないことに業を煮やしたか、子供達が続々と波打ち際から引き上げてきた。
「この人誰?」
「こら、失礼な口をきいちゃ駄目だ。この方はみんなの新しい先生だよ」
半信半疑といった様子で、子供達は恐々と見上げてくる。どの子も素直そうな目をしていた。若竹のような手足に水滴がきらきら光っている。身体の弱い子供ばかりが集められているというが、こうして見る限りではどこにでもいる普通の子供だとしか思えない。
「いつもこうして海に?」
「天気の良い日には。体力をつけるのも教育のうちなんです」
僕の方が先にへばっちゃうことも多いんですけどね、と青年は照れくさそうに笑った。
「先生に御用があって来たんでしょう?」
「君は訓導ではないのかな」
「まさか。見ての通り僕はただの学生です。夏の間ちょっと手伝いをしているだけ。先生ならあちらにいますよ」
青年は少し先の松林を指さした。自分達の他にもう一組来ているという。
「僕達はもう戻りますけど、先生の学級はまだしばらくいることになってます。みんなでいっぺんに帰ると、手足を洗う水場が大行列になってしまうので」
そろそろ帰るよと彼が言うと、子供達は名残を惜しむ素振りも見せず靴を取りに走っていく。子供達は青年をしんがりに、楽しげにじゃれ合いながら帰っていった。私立の寄宿学校というからもっと厳格な雰囲気だと思っていたがどうもそうではないらしい。遠目で見るとまるで大家族のようだった。
子供達が去って、砂浜は波音だけになった。松林に足を踏み入れる。入ってすぐに、あっと声が漏れそうになった。
人の手で切り拓かれた広場に、小さな椅子と机が十ばかりある。折り畳んで運べるようにできていて、太陽を背にしてどんぐりのように並んでいた。奥の太い木にはロープが回してあって、一般的な教室で見るものより一回り小さな黒板が幹に固定されている。自然の中の教室、まさに林間学校と言うべき光景だった。明かりは日光、屋根は松の枝葉。さやさやと風の音がして、黒板の上にまるい光が揺れていた。
椅子に座って黙々と本を読む子がいる。虫を捕まえて遊ぶ子がいる。枝で地面に絵を描く子、寄り添いあって喋る子、あやとりをしている子……みな思い思いに過ごしている。ゆったりとした空気が流れていた。ここに戦争はいなかった。闖入者に気づいた何人かがこちらを見る。警戒はしていないようだが、突然現れた見知らぬ人間をどう扱っていいものか困っているらしい。とりあえず敵意はないことを示そうとぎこちなく笑いかけると、向こうもおずおずと笑みを返してきた。
「せんせいはいまねてます」
本から顔を上げた六歳くらいの少女が、やや舌足らずな声で言った。あっち、と紅葉のような手で黒板の方を指さす。
「寝てるの?」
「うん。せんせいすぐ疲れちゃうから。もうすこし休ませてあげてください」
まるで大人のようなことを言うと苦笑しながら、紫暮は少女のさした方へと行ってみた。以前勤めていた中学校では登校するが早いか軍事教練に明け暮れていたというのに、ここでは暢気に水遊びだ。おまけに訓導が子供を放り出して昼寝を決め込むなど、放任主義にしても度が過ぎてはいないか。死ぬまで戦えとは言わないが少しは国のために汗を流してもいいのではないか。軍国主義に染まりきれない紫暮にもそれくらいの思いはあった。
黒板のかけられた木の裏に、ちょうどよい具合の木陰があった。黒板で風が遮られて陽の光が程よく差している。木製の簡素なカウチがひとつ置かれていて、そこに男が横になっていた。
男は目を閉じていた。生成りの柔らかなシャツと栗色のズボンを身に着けている。腹には脱いだジャケットをかけていて、上には薄い手帳と懐中時計が置かれていた。時計は細い銀の鎖でズボンのベルトに留められている。骨張った白い手がそれらをそっと守るように添えられていた。
思わず声をかけるのを躊躇った。穏やかな潮風が男のやや色素の薄い黒髪を撫でる。鼈甲の丸眼鏡が落とす柔い光が目元でちらちらと揺れていた。作り物めいた繊細さに鳥肌が立つ。まるで一枚の絵画のようだと思った。規則正しく上下する胸元の動きがなければ体温のある人間だと思えなかったかもしれない。
人の気配に男は小さく身じろぐと目を開けた。無意識のように眼鏡に手をやりながら何度か瞬きをする。それからようやく紫暮の方を見た。髪と同じ、純粋な黒よりやや淡い色の瞳。僅かな驚きが過り、それから波が退くように穏やかになった。この世の理の全てが見える、そんな眼差しをしていた。
紫暮は何か言おうとした。しかし言葉がつかえて出てこなかった。かわりに男の方が口を開いた。
「初めまして。君が紫暮一國君ですね」
昭和十九年七月。紫暮が流れ着いたのは、戦火の狭間に取り残された最後の楽園だった。
あれから何十年もの月日が去った。蜃気楼のような日々を思い返すことはほとんどない。二度と想起しないよう胸の奥底に沈めた光景がある。同じ月を見上げるだけで苦しさが蘇る夜がある。それでも、あるひとりの教師との出会いだけは生涯忘れえぬものだった。忘れないために、終着地の知れない細道を愚直に歩み続けてきた。
あの星は今は見えない。あの日確かに捉えたと思った光は幻だったのかもしれない。それでもいつか時が満ちたなら再び目の前に現れると信じている。理性が疑問を投げかける前に心が信じると決めている。それを祈りと呼ぶのだと教えてくれたのは先生だった。
深く暗い夜に、ほんの一瞬輝いた星の残像。朝月朔良はそんな教師だった。
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