片時雨

 悪筆極まりない上に雨で半分溶けかかった電報をどうにか解読し、梅雨時のべたべたと生温い風を払いつつ流行りの探偵小説よろしく緩行列車で半日かけて辿り着いた海辺の宿の一室で、ようやっと探し当てた友は此方こちらの気苦労など知ろうともせず、へらへらと軽々しい笑い声を上げつつまあ座りなよと薄い座布団を勧めてきた。
巫山戯ふざけるのも大概にしろ」
 怒りは虚しく雨漏りのシミの残る天井に溶けた。数年ぶりに会った友が暢気に茶を啜る音だけが白々しくわだかまっている。
「そう怒るなよ。事故みたいなものだったのだから」
 目線ひとつ、謝罪の言葉ひとつ寄越すことなく。今に始まったことではないが、どうしようもない友は飄々と言ってのける。口うるさく説教を垂れたところで碌に聞き入れやしない。そんなことは訪れる前からわかりきっていた。それでも、その言い方はなんだ。ここ数日俺がどれだけ気を揉んだと思っているのか。
「何が事故だ、故意じゃないか! 待てど暮らせど駅に現れないお前を無駄に案じ続けた俺の気も知らないで」
 療養所を出ることにしたと突然の報せが届いたのが一週間ほど前。長雨で足止めを食わされたのか手紙まで彼に似てどこぞを放浪したのか、そのあたりは定かではないが、遅れに遅れた便りに記された到着の日は翌日に迫っていた。
 わざわざ日付が記してある理由など推察するまでもなくわかる。出迎えに来いと言っているのだ。大の大人が何を甘ったれたことをと思ったが、空襲で親兄弟も親戚も火の海に喪った彼にとって手紙を寄越せる相手は学生時代の友くらいしかいないのだ。そう思ったら無下に扱えなくなった。大慌てでその日のうちに仕事の予定を調整し、商談を日延べさせてもらった相手方には詫びの印として菓子折を手ずから届け……そうまでして朝から馳せ参じたというのに、このどうしようもない友は駅に現れなかった。
 全車空調付き、まるで雲に乗って移動しているかのようだと過剰に持て囃された新型寝台特急は新聞やラジオに繰り返し取り上げられ、一日一往復のみの貴重な姿を一目だけでも拝もうと、駅には連日多くの野次馬が詰めかけていた。列車に罪はないが、まるで全ての国民が揃って褒め称えるべき事柄であると定められたかのように人の口に上り続ける様は、戦中に吹き荒れた脅迫観念を伴う昂揚感を思わせるようでどうにも好きになれなかった。
 彼の帰京とその新型特急は直接関係がないのだが、とにかくそんな盛り上がりに沸く駅で何本もの列車を見送り、到着に気づけるように昼は立ち食いの蕎麦のみで簡便に済ませ、到着の番線が違うのかついぞ噂の特急は拝めず、いよいよ暮れかけてきて肌寒くなり……結局彼は現れなかった。途中駅で何かあったのか、体調でも崩したのかそれとも荷物でも失くしたかもしや騒ぎに巻き込まれでもしたか、とあれこれ考え煩悶し、結局とっぷりと日が暮れた頃に諦めて伝言板に連絡先を書き残して帰った。
「うっかり寝過ごして、気がついたら海辺をひた走っていてね」
 とは彼の今更すぎる言い訳だが、断じてそんなはずはないのだ。確かに鉄路は彼が長らく療養していた地からここまでひと続きであるが、一度乗り換えないことには海に辿り着くはずがない。眠り込んでいたというのが本当ならば、元来た山の方へと折り返しているはずだ。
「大体、これはなんだ」
「どこからどう見ても電報だろう。随分雨に降られたみたいだな」
 数日前に届いた電報紙を突きつけると、彼はそれがどうしたとばかりにのんびりと言った。
「そうじゃない!『キタク スグデムカエラレタシ』……馬鹿なのかお前は。しかもこんなところにいるなんて聞いてない」
 一瞬キトクと読んだこちらの身にもなってほしい。心臓が凍りかけ、落ち着いてもう一度読んだときにはそのあまりの馬鹿馬鹿しさに怒りさえ湧いてこなかった。おまけに差出の住所を見れば何故かあの有名な温泉地・湯河原からで、もう意味がわからないと半ば思考停止しつつこうして出向き、ようやく再会を果たしたのが今というわけだった。
「傑作だろ? 我れ無事にお山の牢獄より現世に帰宅だ。少しは祝ってくれないか」
「誰が祝うか。厄介者が娑婆に出戻ってきたとしか思えん」
 彼の周囲では必ず厄介事が起きる。とはいえ彼に罪がないことも多く、つまりは厄介を引き寄せやすい体質とでもいったところだった。
「そんなこと言って、随分と嬉しそうじゃないか」
 素直じゃないな、と彼はわざとらしく口を尖らせる。
「長く俗世から離れているうちに目が腐り落ちたか?」
 学生時代からどちらかと言えば大人しく目立たない方であったし、内に秘めたものはさておき常識的な振る舞いは備えている。ただし、気を許した友相手にはそれなりに傍迷惑な奴ではあった。今回は狙ってやらかした厄介であることに間違いないのだから、少しくらい罵倒したっていいはずだ。
「おお、相変わらず辛辣だこと。懐かしくて涙が出るね」
 何か事が生じても、大抵の場合彼は動じない。嗚呼困ったな、だの今度こそ万事休すか、だの口では言うが、実際露ほどもそう思っていないのは行動を見ていればわかることだ。むしろ面白がっている節さえあった。そしてそんなときに決まって、彼は俺のことを狙って厄介事に巻き込んだ。
「今度ばかりは許さないからな。本気で愛想が尽きた」
「その本気で、心優しき君は一体どうする気なのかな」
「今度こそその腐った性根を叩き直してやる」
「暴力はよくない」
「お前なんざ、一発か二発殴っておいた方が頭の調子もよくなるってもんだろう」
「いや、よくない。頭はさておき病にあちこち蝕まれた身だ、君の一撃が致命打になるかも」
 彼はわざとらしく咳をしてみせた。恐らく同情を誘うための演技であったと思うが、それにしては生々しく掠れた響きと、一瞬混じった喘鳴にも似た呼吸音に不意を突かれて、思わず二の句が継げなくなった。
――そこまで重い病勢とは聞いていないが、本当のところは。思えば彼は昔から本心を隠すのだけは誰よりも上手かった。
「君に俺は殴れまいよ」
 軽く言い残し、彼は窓を閉めに立った。
 鈍色の空から大粒の雨が降り出していて、煙草を押しつけた跡が点々と残る木枠を濡らしている。彼は窓を片手で引っ張ったが、湿気で軋むのか半ばまでしか動かなかった。両手をかけてもガタガタと揺れるばかりで進展がない。は、と溜息とも疲労の喘ぎともつかない息を落とすのを見て、仕方なく加勢に向かった。
 彼の後ろから手を伸ばす。窓は予想に反して然程力を込めずともするりと動いて、勢い余って危うく自分の手ごと挟み閉じそうになった。
「おお、助かった」
 彼は悪びれもせず言う。わざとだろう、と睨んでやってもどこ吹く風だ。
「お前、見ない間に縮んだか?」
 記憶の中では背丈も目方も自分と然程変わらないはずの体躯は、片腕を回した内側にいくらかの余裕を持ったまま収まっている。療養暮らしで日焼け知らずの腕は成人男子にしては随分と華奢で、嫁入り修行中の娘のようだった。なるほどこの腕では窓ひとつまともに開け閉めできないわけだと変な納得を抱く。
「失礼な。君こそ軍隊暮らしで筋肉ばかり育てたんじゃないか?」
 流石に傷つく、と彼は抗議の声を上げた。否定はしないあたり自覚はあるのだろう。変わらぬ調子に見えて、確かに病人であるのだ。
「もう十年も前のことだ、とっくに溶け落ちたさ」
 溶け落ちる以前に筋肉など餓えのせいで蓄えようがなかったし、記憶に関しては蜃気楼を見るかのように朧気だ。凄惨な光景を山ほど目にしたような気もするし、全て夢であったような気もしている。ぼんやりとしているうちに焼け跡にはバラックが生え、やがてコンクリート製のビルに建て替わった。街には人工的な明かりが加速度的に増えて、戦火の記憶が宿る暗闇は日毎に追いやられていった。

「で? そろそろこの頭のおかしな逃避行の訳を教えてくれないか」
「だから、目が覚めたら乗っていた列車が勝手に海辺を走っていたんだよ」
 大袈裟に言うでもなく、そうだったんだから仕方がないと開き直る調子で彼は続ける。煙草をくれというので一本恵んでやったが、二、三度吹かしただけで苦しげに咳き込んですぐやめてしまった。
「橙と緑のツートン、なんとも可愛らしい列車だった。いつの間にこんなものができたのかといたく感動したよ。聞けば東京には日本一高い電波塔がもうすぐ完成するそうじゃないか。いやはや、丸焼けになったこの国も随分と立ち直ったものだね」
 君もそれに乗ってここまで来たんだろと捲し立てるので、渋い顔のまま頷いてやった。
 その可愛いツートン列車は東京駅を起点に海の方へは走っているが、山へは行かない。やっぱり乗り換えてるじゃないかと思ったが、いちいち指摘するのも面倒になってきたので黙っていた。論理の穴を突いたところで細かい奴扱いされて終わるだけだ。
「何もないところでぽつんと降りても仕方がない。そんなこんなでしばらく揺られていたら、聞き覚えのある駅名が聞こえてきた。それでこうなったというわけだ。ここはいいところだ、陰気くさい風が吹き溜まる山と違って、海から生命の息吹がやってくる。君もしばらく羽を伸ばすといい」
 つまるところその場の思いつきで失踪したというわけか。出迎えにくる友の存在などすっかり忘れ、風に呼ばれるがまま。
 彼は吸いさしを差し出してくる。深く考えずに貰って吸い込んでからふと、肺病みに貰い煙草は如何なものかと思ったが、すぐにどうでもよくなった。
「言いたいことはこれで全てか。満足したなら帰るぞ、さっさと荷物をまとめろ」
「まるで鬼軍曹のようだね。……ああ、まるでじゃなくてまさに、だったのか」
「お前に戦地のことなどわからんだろう」
 無駄になじるつもりはなかったが、意図せずそういう物言いになってしまったのは、地獄を見ずに済んだことへのやっかみがあったからかもしれない。
「まあな。でも戦場を知らない俺にもこれだけはわかる、君は鬼になれなかっただろうね」
「俺は殴られたくも殴りたくもなかっただけだ」
 下士官になれば理不尽な目に遭うことも、遭わせることも減る。それだけを考えて幹部候補に志願した青二才は、戦争というものを全くわかっていなかった。下士官など羽の生えた蟻程度の存在で、羽の有る無しに拘わらず等しく踏み潰され死ぬのだと。
「俺もそうだよ。だから病を得てうまいこと逃げきったというわけだ。君もそうすればよかったのに」
「誰が好き好んで肺病になどなるか」
「ええ……でも君、除隊した理由は肺尖カタルだときいたけれど」
「ほんの掠った程度の、な」
 これ幸いと病勢を誇張して逃げ帰ってきたという方が正しい。実際郷里に戻ってしばらく寝て暮らすうちにすっかり恢復した。食べ物に困らなくなった今となってはその片鱗さえも見つからない。
「俺は本格派だからな」
「そんなところで誇るな」
 俺の血沈数値は……などと自慢にもならない自分語りを始めようとするどうしようもない友の咳が止まらないのを見かねて、まだ長い一本を揉み消した。
「俺には帰る場所なんてないのさ」
 悲観するでもなく、自然な調子で彼は言った。
「初めからそう言えばよかっただろう。しばらく泊めてやるくらい造作もない」
 召集されるもずる賢く生き延び結局は郷里で寝ながら終戦を迎えた俺と、穀潰しの役立たずと隣組に詰られ挙げ句空襲で家族の全てを失い壊れた心身ひとつ引き摺って高原へ消えた彼と。地獄を見たのはどちらの方だったかなど、考えたところで仕方がない。
「誰かを頼るなんて、考えつきもしなかった」
 彼は静かな目をしていた。眼差しの先にあったのは悲しみではなく、もう充分だ解放してくれとこいねがう疲れた諦めであった。
「わざわざ帰京の日付まで記した手紙なんか差し出しておいてよくいう」
「あれは日記のつもりだったんだ」
「傍迷惑な日記だな。お前のせいで日延べすることになった商談が流れたら責任取れよ」
 帰るぞ、ともう一度告げる。降りしきる外を見、殺風景な四畳半を見、最後に照れたように此方を見上げて、ようやく彼は微かに頷いた。

「海は見たかい」
 くたびれた浴衣からシャツに着替えながら彼は言う。部屋の隅に丸められていたズボンに足を通し、ポケットに入っていた紙切れを取り出すと、しばらく眺めたのちくしゃくしゃに丸めて屑入れに放り込んだ。
「車窓からと、駅からここまで歩く間にちらりと」
「そんなら松林の向こうに少しだけしか見てないな、勿体ない。駅へ向かう前に浜に寄っていこう」
「雨だぞ? また今度にしないか」
 見事な青空と白波が拝めるというならまだしも、時期でもない灰色の寂しい海など眺めたところで仕方がない。それに空元気の病人を無駄に消耗させたくもなかった。
「見られるときに見ておかないと」
 一人で眺めるよりずっと美しいはずだ、わかるだろう? そう言いたげな眼差しを軽く伏せて、彼は小さく笑った。

 開けた視界の先にあったのは、予想した通り色彩の乏しい景色であった。それでもあの日の友の清々しい表情を、俺は今でも折に触れて思い出すのである。