Traum

 夢を見せてあげましょうか。目を閉じて、ひとつ、ふたつ、ゆっくり数えて……そう、そのまま。
 眠れないんですと消え入りそうな声で訴えた男は、少し優しく声をかけて瞼を軽くおさえてやっただけで、簡単に意識を手放した。眠れないのではなく、目を閉じるのが怖かっただけなのだろう。
 大人しく眠りに落ちた男の顔を見下ろす。決して醜くはないが、整ってもいない。縁ばかりが嫌に目立つ眼鏡を外して、ぱっとしない容貌がより捉えどころのない凡としたものになっていた。明日には忘れる顔だとよく言われると、男は嬉しくもないのに嬉しそうに笑っていた。
 何をさせても不器用で、頭も大して良くはなくて、人の顔色ばかりおどおどと窺って。端的に言ってしまえば、莫迦だ。そしてこの男は孤独なのだ。どうしようもなく孤独で愛を知らず、それゆえこんなところで先の短い肺病みを抱いて寒さを忘れようとしている、可哀想な人。
 仔猫のように柔らかい黒髪を指に絡めて弄ぶ。いっそ短く切ってさっぱりしたら幾分か人覚えもよくなるんじゃないかと勧めたこともあったが、せっかく褒められた髪を切りたくないと返されて閉口した。確かに手触りの良い絹のような髪だと褒めはしたしお世辞でもなかったが、女じゃあるまいし、まさか項を隠すほど伸ばし続けるとは思いもしなかった。
「莫迦だよ、あんたは」
 そう言ってやっても男は心底安心しきった顔をして、まるで世界でここだけが居場所であるかのように、私の片手をしっかりと握り込んだまま眠っている。つい半刻前に繋がり合ったばかりの残火を宿した手のひらは少し汗ばんでいた。温もりを心地良いとは思わなかったが、不快でもなかった。
「莫迦だよ、こんな先のない命と運命を共にしようだなんて」
 怠さの残る首をぐるりと回す。ふと見上げた窓の外は白かった。
 あの純白の中ならば、どんなに道を外れた人間も美しく見えたりするのだろうか。孤独も虚勢も癒えぬ病も包み隠して、汚れなき始まりへと還してくれるだろうか。
 雪が冬枯れの枝を打つ、湿った音が微かに耳に届く。しんしんと降り積もる寒さに虚しさが通り過ぎる――そうだ、こいつをこのまま置いていってやろうか。
 わざわざ私の方から消えてやる必要はないはずだった。そんな面倒なことをせずともただ一言、もう二度と顔も見たくないとさえ告げれば、男は金輪際店の敷居を跨げないだろう。それが互いのために最も良い手切れの形であることは明白だった。
 この男は、自分が遠からず置いていかれる存在であるとわかっていないのだ。ただの偶然、束の間繋がり合っただけの身体と精神を、哀れにも永遠であると思い込んでしまった。
 彼ばかりが愚かなわけではない。底なしの孤独に気前よく付き合ってやった自分にも非はある。望むならばどこまでだって、手を取り合って二人で逃げてやってもいいと言った心に嘘はない。それどころか、本心の方が幾分か重かったくらいだ。
 何の事は無い、先に目が醒めたのが自分だというだけのことだった。売り子と客の関係でしかないことを、そろそろ思い出させてやるべきだ。心地良く断崖へと歩む夢から引き摺り上げてやらねばならない。
 どれだけ熱を注がれたところですぐに冷える欠陥品に縋りついた哀れな指を、ひとつひとつ解いていく。しっかりと掴んでいるように見えて、そっと揺り動かしてやれば案外簡単に外れた。そんなものか、と拍子抜けする思いだった。

 足音を殺して廊下に出ると、鋭い寒さが身を刺した。
……っ」
 背がぞくりと粟立つ。忘れていた胸のざらつきが存在を主張し始めて、そうだこの身は病を抱えていたのだとようやく思い出した。
 深雪が放つ静寂に呑まれて、呼吸音ひとつ許さない気配で満ちている。盛りの時間にはあちらこちらから熱の籠った囁きが零れる色宿も、夜明け前、最も暗く深いこの時分は、どの部屋も寝静まっているようだった。
「け、ほっ、ごほッ、ぜッっう、げほッごほゴほっ、ぜッ――ひゅ、ッ……
 少し外の空気を吸いたくなった。が、窓を開けようと手を伸ばしたところで咳の衝動を押し留めきれなくなった。急に温かさを奪われた身体が抗議しているかのようだった。
「ゼッぉ、げホっごほッ――ぐッぅ、ぜぇッ……
 ささくれ立った咳は病に風穴を開けられた肺を容赦なく抉り、新たな空洞を穿つ。ぜぉぜぉと身を折って咳き込むうちに視界が白んできて、思わず目の前の窓枠に縋った。
 どうしてこういつも急なのか――この発作のせいでほとんどの持ち客は離れていった。当然だ、いくら容姿やもてなしが好みだったとしても、己の命と束の間の快楽を天秤にかけたくはないだろう。
「ッ、ぁ゛、ぜぉッぜぉォっげほげほゴほッ、ひッ、かハっ、けほ、ッ゛」
 赤の気配がこみ上げる。手のひらで受けたが足りず、指の隙間から溢れた色彩が手垢で黒ずんだ窓枠に鮮やかな染みを広げた。
 少し前までは喀いてさえしまえば楽になったのだが、このところそうはいかなくなってきていた。繰り返し咳くことに体力が追いつかず、動けなくなってしまう。
 肋の内側がまだ痛む。もう二、三咳き込めば喀ききれそうなのに肺が上手く機能しない。意味を成さない浅い呼吸ばかりが散らばって、苦しさに意識が明滅した。

――おいていかないで。
 ぐ、と背に温かいものが沿った。ついに感覚までおかしくなったかと錯覚したが、それは紛れもなく人の重みを持っていた。
「っ……けほ、ゼ、ッう、つるからけほッ、っぅ……やめな、さい」
 背中にしがみついた体温は嫌々と首をふった。幼な子が駄々をこねるかのようだった。
「夢を、見たんです……あんたが庭の牡丹になって、雪に呑まれて首を落とす夢を」
 怖くなって目が覚めたら、あんたが隣にいなくって、それで。男は嗚咽交じりに訴えると、骨と皮ばかりになった項に鼻を押しつけた。次から次に溢れる涙が骨に沿って流れて、冷えた背に染みた。
「おれは、あんたと、死ぬためにきたんです。おいていかないで」
「莫迦、だね……泣くんじゃないよ」
 いいから、離しな。苦しくって仕方がない。そう言ってやると、男は慌てて体を引きはがした。手のひらを染めた赤を見て、大丈夫か、医者を呼ぶかと今更のようにおろおろとするのが可笑しかった。
 大事ない、少し強く咳き込んだだけだから。そう告げれば、男はころりと騙された。
 泣き濡れた目をしたまま、男は唇を喰らった。鉄錆の味で満ちた口内に割って入った体温は、不思議と心地良かった。
 おいていかないで。唇を同じ紅に染めて、彼は見たこともない顔で笑った。その顔を美しいと、初めて意識した。
 
 嗚呼。余程孤独だったのは、私の方か。