霹靂

 数寄屋門をくぐる頃には膝から下は言うまでもなく、傘を持たない方の肩もインバネスの裾までも、激しい雨風でしとどになっていた。まだ夏の翳りの頃だからいいが、これが冬だったなら身体の芯まで凍えていただろう。
 ごめんくださいと引き戸を開ければ、玄関先までバタバタとした気配が漂ってきていた。丁寧に掃き清められた三和土たたきで仄照らす行灯を頼りに靴を脱ぐ間にも、上がってきてくださいと半ば叫ぶように呼ぶ声が奥から聞こえてくる。濡れた靴下のまま上り込むことに申し訳なさを覚えたが、後で拭けばいいかと思い直して慣れた廊下を進んだ。
 外の嵐の音にも似た咳が聞こえる。このまま朝まで降り止まなければ村落へと続く橋を押し流しそうな勢いの暴風雨と比べるほどの激しい響きではないが、それが発作の程度が軽いからなのか、もう力尽きかけていて強く咳く余力すらもないからなのかは、長く診ているうちに音だけで大体見当がつくようになってくる。淡々と感じられるほどに、水が湧き出すがごとく吐き出される掠れた響きのそれは、体力の限界が近いときの咳だ。
 襖を開ける。目の前にあったのは予想通り、座位を保つことすら儘ならない様子の病人と、その背を支え擦りながら呼吸を促す青年の姿だ。
「すみませんこんな夜更けに……僕ではもう手に負えなくて」
 薬は一時間前と三十分前にそれぞれ規定量を服用、でも十分くらい前に戻してしまったから効果はどれほどあるかわかりません。定かではありませんが脈拍も少しおかしい気がします。病人の背を擦りながらも冷静に報告する青年に、立派になったものだと感心する。つい数年前までは電話の存在も忘れて医院に飛び込んできてはお師匠さまが死んでしまう、助けてくださいとべそをかいていた子どもが随分と成長したものだ。
「ありがとう、後は任せなさい。すまないが湯を沸かして、蒸した手ぬぐいを用意してもらえないか」
 青年ははい、と返事をすると、病人を支える手を慎重に、世界一の宝玉を扱うかのようにそっと引き抜いた。ひと呼吸置いてさっと一礼、見事に背筋の通った所作で部屋を後にする。
 音もなく襖が閉じたのを見届けて、病人の横に膝をつく。ただの医療行為だというのに、神経質な弟子は無駄に距離が近いだの不必要に触るなだの師匠に対して口のきき方がなってないだの、後で散々に文句を言うのだ。良い師匠に恵まれたおかげで隅々まで気の利く賢い好青年に成長したとは思うが、彼とはどうにも反りが合わない。あらかたの処置は彼が退室している間に済ませてしまう方が気楽でいい。
……さて、と。おい、意識はあるよな。聞こえているなら俺の手を握れ」
 耳元に寄せて問えば、触れた手に縋るように力が込められる。二度服薬しても碌に効かず挙げ句戻したと聞いたときは少しまずいかと思ったが、これだけ反応が返せれば充分だろう。
「胸と背を診るから、一度体を起こす。苦しいだろうが辛抱してくれ」
 軽々と持ち上げられる痩せた背を片手で引き起こして、もう片方で着物を腰まで落とす。帯はすでに緩めてあったので然程手間取りもしなかった。
 ヒぐ、と引き攣った呼吸に肩が跳ねる。喘ぐ息が膨れ上がって、雑音とともに爆ぜた。ぜォぜォと肺を裏返さんばかりに咳いて、鎖骨が抉れんばかりに溝をつくる。
「大きく吸う……のは無理だな。息を吐くことに集中しろ、できるだけでいい」
 胸の内で小さく頷くように頭が揺れた。普段息をすることを意識すらしない常人に今の彼の酸素量を強いたなら数分と保たずに気絶するだろうが、幸か不幸かこいつの身体は異常な低酸素状態に慣れきってしまっている。これだけ呼吸が儘ならないというのに、まだ意味のある反応を返せるのは正直驚嘆に値する。
 ふ、とすぼめた唇から僅かに呼気が落ちる。絶え間なく溢れる病痾を無理に飲み込んだ苦しい間が一秒、二秒……と保たなかった。ゼご、と軋む音とともにひとしきり吐き出された咳は消耗した身体を容赦なく嬲る。苛烈な発作に呼吸の自由は完全に奪われ、胸を逆撫でる嵐が青褪めた唇から吹き下ろす。咳をすることでなんとか息を吐き出そうとしているのだろうが、徒に体力を奪うばかりで労力に伴っていない。
 この様子では日暮れ頃からずっと発作を起こしていたのではないだろうか。服薬しても一時間以上苦しさが居座り続けるならすぐに呼べと何度言い聞かせたかわからないが、こいつは素直に従ったためしがない。なまじ苦痛に耐えられる胆力がある分余計にタチが悪い。特にこんな土砂降りの夜なら、時間が経てば経つほど悪化するのは目に見えていただろうに。
「あー、全然聞こえねェや」
 申し訳程度にあてた聴診器の内にも嵐が吹き荒れていて、有効な指針は得られなさそうだった。鋭い弟子が脈がおかしい気がすると言うから万が一のことも考えて一応聴診くらいは、というつもりだったが早々に諦める。用事があったのか稽古に熱中していたのか薬だけでどうにかなると思ったのか、理由はどうでもいいがとにかくここまで悪化させる前にどうして呼んでくれないのだと小言のひとつやふたつ並べたくもなる。
「胸は痛むか」
 問えども返事は戻らない。ほとんど反応はなく、肩と首筋が小さく震えるばかりで意思疎通が図れない。意識はかろうじて残っているのか、細い笛の音のような呼吸の合間に何か言葉を口にしようとしていることだけはわかった。
 鎖骨の下にやや古びた引っ掻き筋が散っているのが気にかかった。呼吸苦から思わず爪を立てたのならまだいいが、普段から心臓の違和感を覚えているのなら使う薬を変える必要がある。
 橈骨で触れる脈はかなり早いが拍は整っていて、詰めた緊張感が少しだけ解れた。こいつは元々軽い不整脈があるし、この程度ならばとにかく咳を鎮める方が先決だろう。胸の痕については後日落ち着いているときにでも訊けばいい。そう決めて、脆い身体をこれ以上冷やさぬよう着物を手早く元に戻した。
「今点滴を入れるから、もう少しだけ耐えてくれよ」
 毛布を積み上げた簡易的な背もたれに体を横たえる。たったそれだけの動きで咳が吹き上げて、細い背が吊り上げられるようにしなった。
 最早咳ではない。喘鳴が気管を裂いて爆ぜ出したかのようだった。巣食った病が鎌首をもたげて、これ以上酷使したら破れて血を吹く、そう思わせるほどに激しく胸を震わせた。びゅうと地吹雪の音をたてて吸い込まれた酸素が全身に行き渡る間もなく、肺の奥底からざりざりと棘を突き刺しながら吹き戻してくる。
 獣の咆哮のように重く響く咳き込みにしゃくり上げるような喘ぎが混ざる。えぅゥ、と喉骨の下が深く窪んで、嘔吐するなと勘づいたときにはもう迸っていた。
 水の他は何も口にしていないのか、質量はほとんど伴っていない。気道を塞がぬよう横を向かせると、咳とともに僅かな残滓を吐いた。荒い呼吸が薄い胸を波打たせて、苦痛のあまりに流れた涙が鼻筋を伝う。気分の悪さが引かないのか咳によって無理矢理に引き摺り出されてしまうのか、嘔吐えずく息が収まらない。喉元が痙攣するように震える度にえ、ゥえ、と声が押し出されて、衝動に抗うように首が揺れる。
「全部吐いちまえ、楽になるから」
 枕元に転がっていた手拭いをあてがってやりながら大きく背を擦る。肩甲骨のあたりが戦慄くように震えて、ごぼごぼと咳混じりに再び嘔吐した。
 やっと吐ききれたのか少し呼吸が落ち着いて、その隙を逃さず腕に点滴を繋ぐ。細った血管を探るのは中々に難易度が高いのだが、こいつの腕は見慣れてしまったのでわりと上手くいくことが多い。多少動いても外れないようにきつめに包帯で固定しながら、見る度に包帯の白さの目立たない腕になっていくなと余計なことを考えた。