糸雨、朧を与ふ - 1/2

 打ち合わせを終えて応接室を出ると、春めいた土の迷い香を感じた。目を上げると、白けた窓に雫が筋を残している。漠とした憂鬱のせいでふと溢れだした涙のようであった。
 また雨だ。誘花雨に押されて漸く桜が花開いたのが十日ほど前。人々の浮かれた心模様などいざ知らず、さっさと散らしてしまおうとでもいうのか二日と空けず執拗に降り続け、揚々と花見団子を売り出した菓子屋は客が来ないと溜息ばかり吐いている。
 昼間でも薄暗い階段を下り、隙間風にカタカタと小さな音を立てるドアを開ける。途端に若い春の生温さがぶわりと吹き付けてきて、思わず立ち止まった。雨脚は然程でもないが風が強い。夏の夕立ではないから、しばらくしたら止むのかそうでないのかわからない。どうせだらだらと降るのだろう。風流に濡れてまいろうという気分にはなれなかった。
 何処からかくしゃくしゃになった新聞紙が飛んできて、視界の端で水溜まりに着地してうす黒い塊になった。春は澱が溜まる。煮え切らない気温も土くれめいた風もぼやけた空も、昔からどうも好きになれない。雨はドアの前まで吹き込んでいて、ここで阿呆のように突っ立っていてもいずれ濡れるだけだと思えた。
 濡らしたくない原稿を抱え持つときなどは傘のひとつも備えるが、今日は昼過ぎから連載の打ち合わせに出てきただけなので手ぶらだった。編集部に言えば忘れ傘のひとつも貸してくれるだろう。借りるのはこれで二度目で、そういえばうちに返しそびれた蝙蝠こうもりが長らく居座っているが、担当編集が訪ねてきたときにでもまとめて押しつければいい。そう思い踵を返そうとした瞬間、ふっと目の前を紫煙の気配が過った。
 漂ってきた方を見る。狭い軒の下で男が煙草を手にぼんやり佇んでいた。吹き込む雨など意識の外といった風で、気ままに飛沫しぶきを浴びている。やや俯きがちで、男にしては長めの横髪に隠されて表情は覗えない。
 それだけならすぐに興味を失っただろう。吸い寄せられたように目が離せなくなってしまったのは、彼が背後の空間との境目に細い輪郭線を引いたような存在感を纏っていたからだった。まだ若く、見たところ同年代か少し上と思える。使い古されているようだがきちんと手入れのされた印象のトンビを前を開けたまま羽織る男は、小鳥が細枝でいっとき羽を休めるように短く煙を吸い込み、さざめく咳混じりに吐き出した。袖口が二折ほど捲られて、白いシャツから骨張った手首が覗いている。見れば煙草を挟み持つ指も随分と華奢で、やたらと細長かった。楽器でも持たせれば様になりそうな手をしている。
 あれ、と思う。以前何処かで見かけたことがあるような気がしたのだ。出版社に出入りするということは同業者か編集者か。一度見たら忘れられない風貌というわけではない。だからこそすぐに既視感の正体に辿り着けないわけだが、男の持つ気配に、もっと言うならば纏う寂寞に覚えがあった。陳腐な喩えだが、波のない湖面のよう。水鳥が足を下ろすときを待っている、鏡のような静けさ――
 視線を感じたのか、男は何気なく此方を見遣った。ようやく顔が顕わになる。瞬間ぞくりと背が粟立った。男はその佇まいのままに、視線の内に凪を飼っていた。静寂が身体を吹き抜けて、氷雨のごとき冷たさが去来する。その目は遙か彼方を見通しているようにも思えた。
「雨宿りですか」
 おずおずと訊ねると、男はああ、と短く返事をした。それきりで会話が終わりそうになる。
「編集部に言えば傘くらい貸してくれますよ。僕、行ってきましょうか」
「いや、いい。じきに上がるさ」
 ちらりと視線を空にやり、男はゆったりと答える。紫煙がまた風に逆巻いて、男は噎せたように小さく咳き込んだ。
「どうでしょう。春の長雨かも」
 軒下は吹き込む雨でだいぶ濡れている。おまけに今日は花冷えだ。いかにも繊弱そうな男の身を案じて、思わず言葉を重ねた。彼はいつからこうして佇んでいるのだろう。自分がここにきた一時間ほど前はまだ降りだしてはいなかったから、少なくともそれよりは後のはずだ。
「止むさ。後で傘を返しにくる手間をとるより、少し待つ方がいい」
 その言葉には不思議な自信が見えた。彼はまた視線を通りにやる。そこに何かがあるとでもいうのか。つられて自分も見てみたが、先程から何ら変化のない、ただの雨の大通りだった。さらさらと水音が滑り落ちていく。その合間を煙が白く筋を引いて、交わらず霧のように広がっていく。向かいの民家の雨樋は詰まりかけているのか縁からぽたぽたと不規則に雫を溢れさせている。春にしては冷たい風が吹いて、嵌め殺しの窓硝子がカタカタと鳴る。それだけだ。熱心に眺めたくなるものなどない。
 物好きな人だなと思いながら、人間観察でもするつもりでもう一度彼に目をやる。若い見目のわりに妙に達観した横顔だ。静けさと、寂しさと、仄かな陰。掴めそうで掴めない、距離感が曖昧になる感覚。無音の空白の中に、ぽたりと一粒色を落とすヴィジョン――ああ、と唐突に既視感の正体が降ってきた。その答えに思わず身震いする。どうしてすぐに気がつかなかったのか。
「人違いでしたらすみません。たかつぐはるさん、ですか」
 おや、という顔をして男はこちらを見た。視線ひとつで肚の中をぐるりと見渡されているような心地がする。
「以前何処かでお会いしたことがあったかな。申し訳ないが覚えがない」
「矢張り高瀬さんだ。ああすみません突然……申し遅れました、僕はかみといいます。一月號から同じ雑誌で散文を書いてます。まだ不定期ですけど」
 名乗ってもなお高瀬の表情から猜疑の色は消えない。当たり前だ、ただ同じ媒体で書いているというだけで認知されていると思うなど驕りも甚だしい――所詮自分はまだその程度の存在だということだ。
 書かせてもらえることが決まったとき、密かに快哉を叫んだ理由のひとつが目の前にいる詩人、高瀬継治の存在だった。学生の頃からこの文藝誌の愛読者であったので、次号から新人が連載を持つと予告に見たときのことはよく覚えている。大御所の作品ばかり讃えるわけでも、流行の思想を派手に煽る作戦に出るわけでもなく、堅実な審美眼でもって淡々と価値あるものを掲載するがゆえにやや地味で存在感に欠けるこの雑誌が、珍しく強気な語調で次号の予告なんて似合わぬものを載せるから印象に残ったのだ。しかも連載の主は無名の詩人だというからなおのこと驚きである。有名どころの新規連載なら告知する意味もあるというものだが、新人の予告を打ったところで新規の読者獲得には大した効果を上げないだろう。そんなものに紙幅を割くくらいなら今度上梓される評論家の新刊の宣伝を打つべきだ。それくらい編集部だって承知しているはずで、つまりは単純にこの詩人に一世一代の期待を寄せている、ただその興奮のみを表明しているのである。愛読者としては当然興味を持つ。こうまでして売り出したい新人とは一体何者なのか、ひとつお手並み拝見。そんな批評家めいた上から目線で頁を開いた者も少なくないだろう。事実、自分もそのうちのひとりだった。
 初めて読んだときの衝撃は忘れられない。言葉をのんで血の気がひく感覚に陥ったのは生まれて初めてだった。感動よりも先に訪れた大いなる畏怖が身を震わせる。これはなんだ。自分は今、一体何に触れてしまったというんだ。そのときは大学近くの喫茶店で何気なく頁を捲ったのだったが、珈琲が冷め切ってもなお茫然とそこに座っていたのを覚えている。
 無名の詩人の紡ぐ世界は恐ろしいまでの静寂に満ちていた。そしてそれゆえ強烈な引力を持っていた。無音こそが最も人を狂わせる、外部からの音が死に絶えた世界では内側からの音に苛まれて五分と正気を保てないのだ、とは何処の誰が言った言葉だったか忘れたが、それはきっと正しいのだろう。どんな喧噪の只中にいてもこの言葉の静寂は破れない。いや、周囲の音を取り込んでしまうのだ。頭の中の声さえも黙ってしまった。一本の細い糸に収斂した世界の中で、言葉だけが終末の宇宙に浮かぶ星のごとくゆっくりと明滅している。やがて引いた潮が戻るように周囲の音が満ちてきて、夕暮れの鈍い光がカップに反射して目を灼き、それで漸く正気に返った。もう一度恐る恐る活字に目を落とす。ざらりとした手触りに、勝てない、と直感的に思った。
 とんでもない書き手が現れてしまった。この逸材を発掘した編集者もとんでもない。興奮のままに宣伝を打つのも納得だ。しかしそこまで考えてはっとした。この先ものを書いて食っていくつもりなら、こんな人間離れした才能とも肩を並べていかなくてはならないのか。
――いいだろう、やってやろうじゃないか。
 それ以来、高瀬継治という詩人は神谷の中で密かなる畏敬の対象であり、同時にいつかは超えるべき存在として北極星のごとく君臨するようになったのだ。

「ひと月ほど前、文藝誌の周年記念の立食会で少しだけお話ししました」
 どうやら本気で覚えていないらしい高瀬に、それとなく緒を投げる。たとえ記憶になくとも、社交辞令としてああ、あの時か、と話を合わせてくれるのではないかと思ったのだ。しかし目論見は外れた。
「あの日か。確かに引っ張り回され方々から声をかけられたが……正直言って面白い話はなかったからまともに覚えていない」
 高瀬はさらりと言ったきり噎せたように軽い咳を零し、また黙ってしまった。これはいよいよ取り付く島もない。とはいえこんな風に言葉を交わせる機会が今後再び訪れるかどうかわからない。ここで会話を途切れさせるのは惜しかった。
 あの日、立食会の大広間でつまらなそうな顔をしてひとり壁際に立っている男にふと目がいったのは、神谷もまた暇を持て余していたからだった。駆け出しの作家には声をかけたがる大衆誌の記者もいなければ、可愛がってくれる大御所もいない。それならば自ら積極的に名を売り込みにいけばいいのかもしれないが、どうにも気後れしていた。声をかけられてこそ一流、などという不遜な見栄もあった。
 壁際に立つ男にも似たような身の置き場のなさを感じた。所在無さげというよりは人々の喧噪を遠目に眺めるだけで満足しているといった風だったが、年の頃も近そうだしとなんとはなしに声をかけた。それがあの憧れ続けた詩人だったのだ。いつしか空想上の存在のように思えてきていたので、あまりにも当たり前に実在している衝撃が勝ってまともに言葉が出なかった。挙げ句緊張と有頂天の狭間で至極どうでもいい事を口走った。今思えば、確かに彼の言うようなつまらないやりとりだっただろう。
 そうこうしているうちに高瀬の担当編集者らしき男が殺伐とした気配も隠さず現れて、彼のことを連れ去ってしまった。広間の真ん中で複数人と名刺をやりとりしているところを見るに、どうやら編集者自ら気鋭の詩人を紹介して回っているらしい。対して高瀬は愛想笑いこそ浮かべているものの、相変わらずその場にただ突っ立っているばかりで親交を深める気などさらさら無いようだった。連載を持って数年経つというのに、いまだに文壇とほとんど関わりを持とうとしないという噂は本当のことらしい。
 結局その後彼の周りから人の波が絶えることはなく、短い邂逅は次に繋がることはなかった……今日このときまでは。
「高瀬さんの詩、読んでます。連載の最初から」
「ああ、それはどうも」
 高瀬は素っ気なく返すのみだった。熱烈ゆえに厄介な信奉者のように聞こえただろうか、と己の物言いを後悔してももう遅い。彼の視線が自分を捉えている、その事実だけで竦みそうになる。紡ぐ言葉と同じ色をした眼差しがそこにあった。
 気づけば随分と風が弱まっている。目の端にきらりと光が反射して、見れば通りの水溜まりに雲間から薄明りがさしていた。
「あ……本当に止みそうだ」
 詩人は空模様の行方さえも見通すのか。当の本人は当然だとばかりに空を見上げている。
「ではまた何処かで」
 雲の切れ間が縁の切れ目か。挨拶もそこそこに、高瀬はまだ小雨の残る街の中へと歩き出そうとする。
「あ、あの、高瀬さん」
 まだ何か用でも、という顔で高瀬は振り向いた。
「せっかくですし、もう少し話をしませんか。ほら、同じ雑誌で書いているもの同士として……」
 高瀬は眇めた目で考え込むような素振りを見せた。突然の不躾な誘いに気を悪くしただろうか。彼はどう見ても付き合いがよさそうではない。本当に気を許した数人としか関係を構築しない類の人間であろう。しかしここで退くわけにはいかなかった。彼と付き合いのある極少数にだって、初めて言葉を交わした瞬間はあったはずだ。自分にとっては今がそうだ。今こそこの底知れぬ詩人に少しでも食い込むのだ。
「それに今出歩くとまだ濡れます。霧雨って案外滴るもので、」
「いいですよ」
 どうやって引き留めようか、あれこれ考える暇もなかった。高瀬はゆったりと笑みを浮かべると軽く頷いた。
「店はぼくが選んでも? 丁度このあたりに馴染みの喫茶があるので」
 冷ややかな気配はいつの間にか霧消している。まるでいくつもの顔を使い分けているかのようだ。変わり身の早さに目眩がした。誘ったのは自分の方なのに、気がつけば完全に彼のペースに乗せられている。