今にも雪の降り出しそうな鈍色の中を足早に、真道は蘇芳の家へと向かっていた。
ひと月で季節は随分と進んで、外を歩けば痺れるような寒さが背中にまとわりついてくるようになった。外套をきつく体に巻きつけても、冬は足元から染み入ってきた。
「おおい、蘇芳。いるんだろう」
寒さに身を縮こまらせながら二十分程歩いて辿り着いた玄関先で声を上げたが、返事はない。戸を強めに叩いても同じことだった。
またか、と溜息をつく。最近はいつものことだった。居留守を決め込んでいるのではなく、臥せってしまって玄関先まで応対に出ることすらできないでいるのだ。
「邪魔するよ」
戸を開けた先はしんと静かに冷え切っている。勝手知ったるとはいえ、黙って上り込むのは流石に気が引けて、小さく声をかけた。
狭い廊下を突っ切って、真っ直ぐ奥の部屋へと向かう。
「俺だ、真道だ。入るぞ」
襖をそっと開けると、布団にほとんど埋もれた顔がこちらを見た。
「ああ、すまない。見ての通り、出られなくて……一気に寒くなったな」
細い声はざらざらと掠れていた。声の半分ほどは音になっていない。
「咳のせいで、声がまともに出ないんだ。悪いね」
は、は、としんどそうな呼吸をしながら、それでものろのろと起き上がろうとするので、そのままでいい、と慌てて制した。
「無理に動かなくていい。また発作が起きる」
最近はひどく咳き込む度に喀血して、まともに食事も摂れずに消耗していくばかりだった。
枕元に転がっている手拭いが血で汚れている。大量ではないが、断続的に続いているのだろう。
「いつ喀いた」
「数時間前に、軽く……もう、治まったから、大したことはない」
もう血など見慣れてしまったとばかりに、蘇芳は気怠く答えた。
「少しでも喀いたならなるべく早く呼べと言っただろう。喉に詰まらせでもしたらどうするんだ」
「呼んだだろ」
「遅いと言っているんだ。いいか、ここは療養所じゃない。いつでもすぐ駆けつけられるわけじゃないんだ。俺の勤めてる病院からここまで、どんなに急いだって十分はかかる。家からなら尚更だ」
本当ならば入院させるか付きっきりの世話係をおきたい病状だというのに、この暢気な患者は危機感がちっとも足りていない。
「すぐ治まると思ったんだよ。落ち着いてからでもいいと思って」
実際治まっただろ、次からは気をつけるから――蘇芳は投げ遣りに言った。この問答ももう何度繰り返したかわからない。
「とりあえず、胸の音を確かめるから。起きなくていい、そのまま楽にしていろ」
うん、と蘇芳は素直に頷いて、仰向けにぐったりと体の力を抜いた。
「ゆっくり呼吸を続けて」
布団を腹のあたりまで払い、着物の間から聴診器を差し入れる。痩せて骨ばかりになった胸に、機器の先がうまく当たらない。少し角度をつけてやって、ようやくまともに機能した。
「少し吸って……無理はしなくていい、できるだけで」
蘇芳は言う通りにしようとした。ぜ、と音を立てて息を吸い、しかしすぐに噎せ込んでしまう。
聴診器の中は雑音で満ちてしまった。砂を手でかき混ぜているような音の周りを、苦しげな早い心拍が巡っている。
「もう一度だけ、やれるか」
深い呼吸が続かない。吸い込む途中で引っかかり、全て鋭い咳となって吐き出された。
「っぜぉ、げほッ…! ぜぅッ、ぜほっげほげほッ……げほ、っは、はぁっ、わる、い、無理、だ」
止まらない咳に嬲られて、蘇芳は横様に背を折った。薄い背が痙攣するように撓って、咳とも呼気ともつかない雑音をぜえぜえと吐き出す。
「力を抜け。少しずつ吐くんだ。蝋燭をゆっくり吹き消すみたいにするといい」
肩と首筋がぐっと強張る。色をなくした唇の間から、僅かな吐息が落ちる。
「っ、う」
蘇芳はがばりと口元に手をあて、げほげほとその中に咳を溢した。じわりと指の隙間から血液が一筋伝って、枕元に敷いた手拭いに染みた。
「は、は……けふっ、こほ……ッ、は、」
――こうなってしまった患者は、大抵春まで保たない。医者としての冷静な思考がそう判断していた。
「咳が、止まらない……どうにか、してくれよ」
蘇芳は切れ切れの声で訴える。
「病を体の外に出そうとしているんだ、全部無理に止めようとするとかえってよくない。が、咳も喀血も体力をかなり削るからな。薬で少しは抑えようとしているんだが……」
現状でも相当に強い咳止めを使っているのだが、効果はあまりないようだった。
「莫児比𣵀、打とうか」
もうできることはほとんど残されていない。苦しみを取り去るには、鎮痛薬で鈍らせるか鎮静薬で眠らせるかしかない。
「はッ、それしか、ないってか……笑えねえ」
蘇芳は首を横に振った。
「なら、いらない。……まだ、死ぬつもりは、ないんでね」
「別に死を待つのみの患者にだけ使うわけじゃない。むしろ逆で、無駄に体力を消耗させるばかりの苦痛から少しでも遠ざけることで、命を延ばすこともあるんだよ」
だから無理に痛みを我慢することはない。そう説得してやると蘇芳は少し考えるように目を閉じて、やがてぽつりと、少しだけ鈍らせてくれないか、眠れるだけ、と零した。
「薬包紙の鶴、随分増えたな」
鶴たちは盆の上だけではなく、文机や窓辺など、いまや部屋のいたるところに佇んでいる。あっちを向いたりこっちを向いたり、傾いたりひっくり返ったりと個性豊かで、まるでこの部屋の小さな守り神のようだった。
「毎日の薬が、増えたからな。…っぜほ、けほッ……俺の体が悪くなるほど、こいつらは加速度的に増える」
薬が効いて少し呼吸が楽になってきたのか、蘇芳は目を上げた。
「見てろよ。いまに、鶴の楽園になる。シベリアからきて、春まで居座るんだ」
盆の上にいる鶴は、以前より少し形が悪くなっていた。紙がぴったり合わさっていないからか、くちばしの先がピンと尖らず、丸く潰れている。
「こんなに作ってどうするんだ?」
「別に。特に、意味はない。言っただろ、気慰めだって。薬を飲むのも少し楽しくなるんじゃないか……なんて考えもしたけどな。さっぱりだ」
欲しければ好きに持って帰っていい。そう蘇芳は言ったが、遠慮しておくことにした。人には言えない、口にできない想いがあるんじゃないだろうか。鶴を折るという行為に、無意識にでも何かを託しているのではないだろうか。そう思うと、ぞんざいには扱えなかった。このまま彼のそばに置いておいてやるのが一番な気がした。
「奥さんは、どうだい」
子供は順調か? 今更遠慮することでもないだろうに、蘇芳はおずおずと尋ねる。
「ああ。ようやくつわりが落ち着いて、物を食えるようになって元気が戻った。腹も日に日に大きくなってきて、洗濯と炊事が大変だとぼやいている」
医学の知識として、妊娠により起こる心身の変化は知ってはいたが、実際に日々目の前で繰り広げられると驚きの連続だった。つわりで食べられない日が続いたところで胎児に影響はほとんどないとわかってはいても、何を食べても吐き戻してしまう様は見ているだけで狼狽えてしまったし、妊娠中は精神の状態が不安定になりやすいと知っていても、愛する妻に辛辣な態度をとられれば落ち込みもする。
「それは、よかった。生まれたら、きっともっと大変だろうね」
蘇芳は楽しげに笑った。学生の頃、人のくだらない惚気話を聞いてヘラヘラと頰を緩ませていたときと変わらない笑い方だった。
「息子か、娘か、どちらだろうね? 君はどっちが欲しいんだ?」
「どっちだっていいさ。妻は男な気がする、と言っているが。生まれるまではわからんな」
「じゃあ、俺は女に賭けておこう。見事当たったら何かくれよ」
そうだな、小泉八雲の全集が欲しいかな。人に貸したっきり返ってこなくてね。蘇芳は悪びれもせず言う。
「勝手に人の子を賭け事のダシにするな」
「冗談だよ。……息子でも娘でも、君に似て利発な子になるだろうね」
君の子は、どんな未来を生きるんだろうか。輝かしい世界だといい。蘇芳は優しい目をして言った。
「なあ、蘇芳」
ずっと言おうと思っていたことを今ならば。真道は思い切って口を開いた。
「子供の名前のことなんだがな。お前の名から一文字もらってもいいか?」
突然の提案に、蘇芳は目を丸くした。
「なんで俺の名からとるんだ。君の名からとればいいだろう」
「父親から一文字とか、いかにもすぎて気恥ずかしいだろう。それに、俺の名からだと『慶』か『介』の字ってことになるが、もしも娘だったらちょっとどちらも使いづらい。その点、お前の名は綺麗でいい」
夏流という名は、夏の終わりに生まれてつけられたらしい。流れ過ぎゆく夏。それは彼の生き様にも似ているように思えた。
「春に生まれるんだろう? 名前に夏がついていたらおかしい」
どうしても名をとられるのが嫌なのか、蘇芳は尚も食い下がった。
「じゃあ、『流』の字をもらおう。いいか?」
蘇芳はしばらく押し黙った。
「……やめておいた方がいい。俺のように弱く育ってしまうかも」
その口調は冗談には聞こえなかった。根拠の欠片もないことを、本気で気にしているのだ。
「そんなわけあるか。お前は誰より強いさ。大切なのは体じゃない、心だろう」
彼はいつも凛としていた。病み窶れた今だってそうだ。どれだけ肉体が衰えていっても、病に冒されようと、本質は変わらない。彼を彼たらしめているものは揺らがない。
「蘇芳。お前の名を、俺の子にくれよ」
「……いいのか? あとになって後悔しても、知らないからな」
「後悔なんてするわけないだろ」
子供にはいつか、お前のことを話すさ。そう言いたかったが、それは彼のいない未来を語ることになると気づいて口を噤んだ。
形見なんてつもりはない。ただ、蘇芳夏流という美しき友がいたことを、誰にでもわかる形で残しておきたくなったのだ。
「健康な子が生まれるといい。やりたいことがなんでもできるように。行きたいところにいけるように」
そう呟いて、蘇芳はふっと目を閉じた。そろそろ体力の限界らしかった。
「生まれくる君の子に、心からの祝福を」
願わくば、美しい人生を。彼の微かな囁き声に、救われたような気がした。
数週間後に、容体が一気に悪化した。
深夜に蘇芳の家の近所に住む者が呼びにきて駆けつけたときにはもう、まともに呼吸もできない状態だった。
溺れるような喀血が止まない。まっさらだった手拭いはあっという間に赤く染まって、絞れるほどだった。
「蘇芳。聞こえるか、蘇芳」
耳元で声をかける。かろうじて意識はあるのか、蘇芳は何か口にしようとした。
「…っ、――、」
声は上滑りする呼吸音に阻まれて、聞き取ることができない。
少しでも呼吸が通るようにと、体を横に向けた。たったそれだけの動きで噎せるように咳いて、口の端からごぼりと血を溢れさせる。
――朝まで保たない。そう直感的に悟った。
「蘇芳。楽になりたいか」
どうか頷いてくれ、と思った。もうそれくらいしかしてやれることはなかった。少しでも苦痛なく眠るように最後の瞬間を迎えさせてやること以外に、手は残されていなかった。
「しん、どう」
ひび割れた唇から声が落ちる。
「なんだ」
「ねがいが、叶うと、いい」
ひゅう、ひゅうと細い呼吸が続く。蘇芳はうっすらと目を開けて、真道を見た。
「お前の願いか?」
蘇芳は答えない。ただぼんやりとした瞳で、真道を見ていた。
少しずつ呼吸のペースが落ちていく。ざらつく音が遠ざかっていって、やがてほとんど聞こえなくなった。
思わず彼の手を握った。冷えたその手が握り返してくることはなかった。白い爪の先に血がこびりついていた。
「蘇芳。もう、頑張らなくていい」
声に答えるように、薄い瞳がきらりと光った。涙の膜がほどけて、つっと鼻筋に流れた。
「もう、眠ってもいいんだ」
本当に? 蘇芳の目はそう問うているようにも見えた。
「お前が眠るまで、そばにいてやる」
ゆるゆると瞼が落ちて、睫毛の影が濃くなった。ひゅ、と音をたててひとつ息を吸って、それきり吐き出すことはなかった。