剥明光線 - 1/3

 ちりん。涼やかな音が落ちて、意識が逸れた。真道しんどう慶介けいすけは診察の支度をする手を止めて、音の出どころを目で探した。
 季節外れの音の正体は、縁側へと出る硝子戸の上に、夏の盛りからぶら下げられたままの風鈴だった。ちょっと旦那様、私をお忘れではありませんか。そうささやかに主張するかのように、秋の気配を孕みはじめた風に揺れて時折ちりちりと囁いている。
「仕舞わないのか、あれ」
 何か理由でもあるのか? 訊けば、部屋の主は布団の上に座ったまま曖昧に頷いた。
「どうにも、名残惜しくてね」
「名残惜しい?」
「季節が移り変わっていってしまうのが、寂しくて。俺ひとりが、ここに取り残されたままだ」
 部屋の主は名を蘇芳すおう夏流なつるといった。彼とは学生の頃から交流があり、卒業後しばらくは手紙のやりとりだけが続いていたが、今年になってからはよく会っている。しかし会っているとは言っても最早学友としての付き合いではなく、町医者とその患者として再会したのであった。
 蘇芳は体を悪くして、もう随分と長く療養していた。元々そう頑健でもなかったが、数年前から頻繁に熱を出すようになり、少し仕事の無理が嵩んだだけだと誤魔化すうちにも血液混じりの咳を吐くようになり、次第に床に臥せがちになっていった。以前担当していた別の医者は彼に肋膜炎と診断を下し、転地療養を勧めたが、あまり効果はなかったらしい。大して回復もしないのに金ばかり無駄にかかるし高原療養所サナトリウムは窮屈だと不満を漏らし、今年の春に郷里に帰ってきたのだった。

「あれは俺の分身みたいなものだ。日がな一日庭をぼんやり眺めながら、たまに風に揺られて音を鳴らしてみたり、気まぐれに季節を感じてみたり。でもどこにも行けやしないんだ。じきに冬の来たる窓辺に佇むだけ。全てに置いていかれながら」
 布団から身を起こした格好で、蘇芳は褪せた笑みを浮かべた。少し痩せて鋭くなった鼻筋に、陰りのある色がよぎる。
 学生の頃は快活に笑っていた彼が、いつの間にか浮かない顔ばかりをするようになっていた。病が彼から奪ったものの多さを思って、真道の心は今更ながらに痛んだ。
「置いていかれてなどいるものか。ちゃんとついてきているよ。その証拠に、今度もちゃんと床上げできただろう」
「床上げと言っていいものか……部屋から出ることもなく、ただ本を読んで日々を徒に消化しているだけだ。何を為すわけでもなし」
 見ての通りの有様だ、と蘇芳は部屋の現状を目で指した。
 彼の部屋はすっきりと片付けられていて、読みかけの本が数冊文机の上に置かれている他は、彼の寝ている布団と身の回りの細々したものを除いて何もない。季節毎に花を飾ることもなく、ただ寂しく殺風景であった。
「寝て起きて食って、それだけで人間立派なもんだ」
「虚しさ、っていう感情が人間には備わってるんだ、知ってるだろう? 寝起きするだけじゃ、心から死んでくのさ」
 蘇芳は半月ほど前に高熱を出して以来ほとんど寝込んでいたが、数日前からは短時間なら体を起こしていられるようになり、ようやくこうして軽い会話を続けられるまでに回復してきていた。それでも精神の方はまだ調子を取り戻せていないのか、口を開けば憂う言葉ばかりがこぼれてくる。
「さて。そろそろ診察するぞ」
 重くなりはじめた空気を一掃すべく、真道はなるべくさっぱりと声をかけた。
 蘇芳はひとつ頷くと、帯を少し緩め、胸元を寛げて浴衣を腰まで落とす。
「寒い。なるべく早く終わらせてくれないか」
 少し不機嫌そうな低い声に、わかってる、と返す。
「全く、注文の多い患者だこと」
「相手が君だからだよ。どんな医者相手にも不平不満を漏らすわけじゃない」
「それは誇ればいいのかい? それとも実力不足を嘆くべきなのかな」
 診察を嫌がる本当の理由は冷えるからではなく、痩せ衰えた姿を友の前で晒したくないからだというのはわかっていた。
「君のことは人として信頼してるさ。医者としての腕を疑ったこともないよ。気を許しているがゆえの態度だと思って、少しは大目に見てくれないか」
 蘇芳は疲れた声で言った。今更茶化す気力もないといった風であった。
「ああ、わかったよ。早く終わらせよう」
 痩せて骨の起伏の目立つ胸に聴診器をあてる。医者として病み窶れた肉体は見慣れていたが、相手がかつての学友ともなると、どうしたって一瞬怯んでしまう。動揺を気取られぬようにと、真道は視線を下げて聴診に集中しようとした。
 ひやりとする感覚に息を詰めて、蘇芳は肩に少し力を入れる。
「ゆっくり深く吸って……止めて。そのまま……よし、吐いて」
 呼吸には相変わらず病的な雑音が混じるものの、深いところの音はそう悪くない。何度か深呼吸を促しても咳き込むことはなかった。熱が高いうちは呼吸さえも儘ならなかったから、これは大進歩だ。
 受け持ちの患者の病状が芳しいことに、真道は安心して息を吐いた。心拍も安定していて、懸念していた薬の副作用もなさそうだった。
「うん、順調に回復してきている。この様子なら、そろそろ縁側で外気浴するのもいいだろう。ちょうど今日は天気もいいし、少しどうだ」
 すっかり床に根が生えてしまった患者を外に誘うには、率先して行動するのが一番だ。真道は聴診器を置いて立ち上がると、縁側へ続く硝子戸を全開にした。待ってましたとばかりに爽やかな風が舞い込んで、ちりんちりんと風鈴が回った。
「ほら、こっちに来てみろ。金木犀のにおいがする」
「あまり体を冷やしたくないな。また熱が出るかもしれない」
 蘇芳はちらりと外の様子に目をやって、首を横に振った。
「少しは外の空気を吸わないと逆に体に悪い。いいから来てみろ、気持ちいいぞ」
 しぶしぶといった様子で蘇芳は乱れた着物を直すと、億劫で仕方がないと態度で示すようにゆっくりと布団から抜け出した。便所に行く他にはほとんど立ち動かないからか、足取りがやや覚束ない。
「肩を貸そうか」
「そこまで萎えてない」
 蘇芳は床の側に畳まれていた羽織をとって肩にかけた。袖を通さずぞんざいに引っ掛けたまま、縁側までやってくる。
「ああ……秋のにおいだ」
 顔のすぐそばを通った風に目を閉じて、蘇芳は小さく呟いた。
「言った通りだろう? 金木犀が近くにあるのかな」
「勝手口のあたりに生えているんだ。あまり大きな木ではないが、きっとそれがここまで香ってきているんだろう」
 甘い風に、蘇芳の少し色の薄い髪が揺れている。日本人にしては黒が浅く、昼の光の下では栗色にも見えた。
「久々に外の風を浴びた。もうすっかり秋なんだな」
 早いものだな、と蘇芳は口の中で転がすように言う。憂う目元が横髪で隠れて、しばらくぶりに穏やかな顔を見たように思った。
 部屋から座布団を持ってきて、縁側に用意してやる。何も言わぬうちから蘇芳はすとんと腰を下ろした。やはりまだ動くのはつらいのだろう。
「風鈴はまた来年かな」
 秋風に回転する涼やかな音を見上げて、蘇芳は言う。
「ああ。こいつの今年の仕事はもう終わりだ」
 空には小さな鱗雲がいくつも浮かんでいる。夏らしい底抜けの青はいつの間にか過ぎ去って、清々しい薄い色をしていた。
 華奢な肩にかけられた羽織を、蘇芳は無意識のようにかき寄せた。痩せたせいか、最近はいつも寒そうにしている。
「穏やかすぎるくらいに穏やかだな」
「そうだな。日々の忙しさも溶けていきそうだ」
 ああ、と蘇芳は思い出したかのように声をあげた。
「そうだ、君は忙しいんだった。すっかり忘れていたよ。今日はもう帰った方がいい」
「友と語らう時間もないほど忙殺されてはいないさ。平気だ」
「仕事のことを言ってるんじゃない。奥さん、いま身重だろう。俺なんかのところに入り浸っててどうするんだ」
 女は身籠ってるときに旦那にしてもらったあれこれは子が生まれれば綺麗さっぱり忘れるが、された仕打ちは生涯忘れないってよく言うだろう。独身でありながら、まるで経験してきたかのように蘇芳は言った。
「それはどうだか。家にいるだけ邪魔だとよく言われるがな。余計なことはするな、生まれてくる子のために働けと」
 家のことは全て私の領分だとばかりに、妻は口を開けば仕事をしてこいの一点張りだ。
「強がっているだけなんじゃないか? いいから黙って傍に居てやれよ。こんな肺病みに構ってる暇があるならさ」
 蘇芳は自虐的に笑った。その横顔がひどく痛々しく見えて、真道は一瞬返す言葉を失った。

「俺は君の子には会えないんだろうな」
 庭の向こうを見ながら蘇芳は呟いた。遠い眼差しに、儚い諦念が滲んでいた。
「何言ってるんだ。子は順調だよ、春には生まれる。その頃にはきっと会えるさ」
「俺の身は春までは保つまいよ、きっと」
 まるで一足先に未来を見てきたかのような口ぶりだった。予定されたところまで生きて、それが尽きたら執着せずに旅立つ。そう決めているようにも聞こえた。
「手を尽くそうとしてる医者の前で縁起でもないことを言うな。そんな簡単にくたばられちゃ困る」
「気を悪くしたかい? それなら謝るよ、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。すまない」
 蘇芳ははっとしたかのように視線を戻した。
「どういうつもりだろうが、命の終わりについて簡単に決めつけるんじゃない」
「そうだね、君の言う通りだ。少し滅入っていたんだ、許してくれ。もう二度と言わないよ」
 蘇芳は申し訳なさそうに俯くと、肩からずり落ちかけていた羽織をかき合わせた。
 本当は薄暗い感情をそのまま吐き出させた方が彼のためになるのかもしれない。自らの命の終わりを見据え始めた病人の心を聞いてやるのも、医者の努めだとわかってはいた。それでも終わりを見定めるようなことを自ら言い出してほしくなかった。なにより聞きたくなかった。
 いまだ覚悟ができていないのは、現実を受け入れられないでいるのは、どちらの方か。それは火を見るより明らかだった。

「それにしても、同窓で共に学んだ君がもう父親になるとはね」
 沈んだ空気を無理矢理にひっくり返そうとでもいうのか、蘇芳はやや明るすぎる調子で言った。
「まったくだ。早いものだよ」
「君と机を並べて励んでいた頃が、もう遠い昔のようだ」
 今でも昨日のことのように思い出せるのに、と蘇芳は呟く。
「君は学生時代から嫌味なくらい優秀だった。医者になるつもりだと聞いたときは驚いたが、本当に成し遂げてしまうんだから」
「褒めても何も出ないぞ。お前こそ、学生の頃からいい文章を書いてた。こいつは将来物を書く人間になるんだろうと確信してたよ」
 蘇芳とは高校で出会った。どういう経緯で話すようになったかは正直覚えていない。本の趣味が合って、気がつけば教室でぽつぽつと文学談義を交わすようになり、それだけでは飽き足らず喫茶店へ行くようになった。そのうちに家族のことや将来やりたいことの話なんかもするようになって、互いのことを少しずつ知っていった。
 蘇芳は両親を早くに亡くしていて、卒業したら育ての親である親戚の家を出たいと常々言っていた。家庭に不満があるわけでも殴られて育ったわけでもないが、いつまでも生活の援助をしてもらうのは心苦しかったのだという。その言葉通り、大学に進むことはなく、卒業後は知人の伝手で地元の商社の経理職に就き、細々と働きながら趣味の小説執筆を続けていた。
――それも一年ほど前までの話で、肋膜だと診断されてからはまともに書いていないらしいが。
「君は今や医者で、おまけにもうすぐ父親で。片や俺は血を喀いて職も失い、誰にも見向きもされない言の葉を散らかすばかり。因果だと片づけるにはあまりに残酷じゃないかとたまに思うよ」
 ま、それでも不思議と、絶望はしていない。どこか吹っ切れた様子で蘇芳は言った。
「物書きって人種はさ、絶望も栄養にしてしまうんだ。喜びも悲しみも苦しみさえも、身の周りの出来事全部食っちまう。だから、これでいいんだ。間違ってないんだよ」
 わかるだろう? 蘇芳は同意を求める目をして真道を見た。それがわからなかったから俺は文学の道を絶ったんだ、なんて言えるはずもなかった。
「お前は昔からそうだったな。いつもさっぱりとしていて……空っ風、そう冬の空っ風みたいだと思ってた。お前の周りはいつでもからっと晴れてるんだ」
 そういうところが気の合う所以だったのだろうなと思う。彼のような思い切りのよさを持たない自分に度々嫌気が差しつつも、彼がいてくれるのならば安心だ、とどこかで心理的に頼っていた部分も少なからずあった。
「きみ、いつから詩人になったんだ? 困るな、俺の取り柄がなくなる」欲張るのはよくない、と蘇芳はぼやいた。
「俺に文学の才能はないよ。そう思い知ったからこそ、医者になろうと決めたのさ。諦めた、と言うべきかな」
 誰よりも才のある人間がすぐ目の前にいると気がついてしまった瞬間の喜びと虚しさと。こいつには一生わかるまい、と思う。わからなくていいとも思う。
 蘇芳には文学の道を閉ざしてほしくなかった。才能のあるなしなど正直どうでもいい。この男が小説を書いている、ただその事実ひとつに価値があると思った。それを肺病なんかに奪われるなど以ての外だ。
 こいつをどうにかしてもう一度表舞台に立たせてやりたい。そんな暗い情熱ひとつで主治医をやると言い出したなんて知ったら、蘇芳はどう思うだろうか。
「医者になるのが諦めだなんて、贅沢な奴だ」
 蘇芳は肩を揺らして笑った。珈琲片手にくだらない批評文を読んで散々に扱き下ろしていた、在りし日の文学青年の面影はまだそこにあった。
「さ、外気浴はこれくらいで十分だろう。調子の良いときに少しずつやって、時間を延ばしていくといい」
 あまり急にやりすぎるのもよくない。そろそろ戻ろうと促すと、蘇芳は素直に応じた。
 硝子戸を閉めると、かすかな金木犀の香りとともに風鈴がちりん、と鳴った。

「そういえばあれ、なんだ?」
 真道には診察中から気になっていたものがあった。指さすと、大人しく布団に戻った蘇芳はああ、あれかと軽く頷く。
「薬を飲んだ後の薬包紙で作ったんだ。健気でかわいいだろ?」
 手拭いと水差しの置かれた盆の上に、二センチくらいの小さな折り鶴があった。水差しの影に潜んで少し傾いていて、ご機嫌ななめにも見える。
 真道は鶴をそっと指先でつまみ、手のひらに乗せてじっくりと眺めてみた。羽やくちばしの先までピンと意識が通っていて、よくできている。
「へえ、器用なもんだな。光沢のある紙だから、まるで本物の鶴みたいだ」
「とにかく時間を持て余しているから……ただの手慰みだよ」
「俺も作ってみようかな。今度注射を嫌がって泣く子供がいたら、プレゼントしてやるのもいいかもしれない。泣き止むかも」
 子供を診るのは苦手だった。特に泣かれるとどうしていいかわからなくなる。可愛らしい折り鶴のひとつでもあれば、治療から気を逸らすのに役立つかもしれない。
「欲しいならやるよ。薬包紙なんか、毎日腐るほど空く……っ、けほッ」
 話しながら、蘇芳はふいに噎せ込んだ。
「げほッ、げほっぜぉ……ッは、ああ、ごちゃごちゃ喋ると、すぐこれだ……ッけほ、けほけほっ……」
 背を丸め、蘇芳はうろうろと片手を彷徨わせた。
「ほら、これ」
 手拭いを渡してやると、ひったくるようにして奪う。
「げほげほげほッ…! ぜ、こほゴほッ……はっ、は――ッう、げほ、ぜゥッ…」
 真道は震える細い背中を擦った。羽織越しでも椎骨をひとつひとつ数えられそうな手触りが、彼の身の危うさをありありと伝えてきていた。
「っ……けほ、ぜぉッ…は、悪、い」
「謝らなくていい。少し冷えたせいかな」
 蘇芳は力なく首を横に振った。
「ん……っ、は、平気だ、もう、治まった」
 口元にきつくあてていた手拭いを離す。幸い血の色は滲んでいなかった。
「少し、寝る……」
 蘇芳はそのままぱたんと横になった。着物が皺になるのも構わず、胸元を上下に擦っている。
「痛むか」
「い、や……少し、詰まった感じでね」
 会話をするのも疲れたのか、蘇芳は目を閉じた。薄い唇の間から、ひゅうひゅうと細い呼吸がこぼれ落ちていく。
「お前は、もう帰れよ。人の気配があると、眠れない」
 目を閉じたまま蘇芳は言った。こうなってしまうと、もう何を言っても聞き入れようとはしてくれない。受け入れる気力が尽きてしまっているのだった。
「わかった。苦しければいつでも呼べよ。何時だろうと診てやるから」
「はっ、立派に医者みたいなこと、言いやがって……。俺のことより、奥さん大事にしてやれよ」
 薄目を開けて蘇芳は少し笑った。痛々しい、病人めいた笑い方だった。