一場春夢に暮れる

 水面が幽かに波立つ音が聞こえる。
 低く抜けた風はそのまま柔らかに草木を揺らして、徐々に散り散りになり解けてゆく。

 夢に半分浸かったような焦点の合わない感覚のまま、ただ目の前に眠る男の顔をぼんやり眺めていた。
 つい半刻ほど前まで薄い紙を擦り合せるような音を胸の奥底から響かせ、白い喉を反らし苦しげに震わせていた男は、無理矢理に飲ませた薬によって強制的につかの間の眠りに落とされた。
 彼はこの薬をひどく嫌う。曰く、突然に両手両足を掴まれ成す術もなく闇に引きずり込まれる恐怖と、目覚めた瞬間のどうにもならない身体の重さが心身ともにこたえるのだという。何日も臥せった挙げ句、掠れた声でぽつりとそう告げられた時には、そのあまりの痛々しさに二度と無理強いはしないと思ったものだ。それでも実際に息つく間もなく咳き入り続ける様を目の当たりにしてしまうと、どうしても決意が揺らぐ。
 細い喉を揺らす呼吸はいまだ危うげな増減を繰り返しているものの、その表情に苦しげな色はない。
 まるで苦しみを表出させる手だてそのものを奪われてしまったようだ、と思った。酸素を求めて喘ぎ、堪えきれず痙攣するように咳いている時の方が、よほど生を感じられるとはなんたる皮肉だろうか。
 そ、と思わず触れた血の気の引いた頬は汗に濡れてひんやりとしていたが、しばらく指を置いたままにしていると、次第に内側の常より高い温度が知れてくる。静寂に包まれた部屋の中心で静かに眠る男の体内で、病が岩漿の如くふつふつと音も立てず煮えたぎっては、身体を絶えず蝕み削ってゆくのを確かに感じた。

 浮竹、と、そっとその名を唇に乗せた。呼びかけるといったほどの響きもない、かろうじて音になっただけの微かな空気の振動。
 眠り続ける彼の代わりに返事をするかのようにぱたた、とどこかでまとまった雨粒が一斉に落ちる音が聞こえた。
 弱くなったり、勢いを増したりと気まぐれに降り続いていた雨音は常に意識のどこかにあった筈なのに、ふと再び気を向けた時には聞こえなくなっていた。今はただあちらでぱたり、こちらでぽたりと、その余韻だけを残している。
 見上げた明り窓から見える雲はいつしか切れ切れになっていて、濃いグレイの雲の端の薄まったところから、ぼやけた星がひとつ見えた。微かに瞬いたそれはじっと目を離さず見ていた筈なのに、瞬きの合間に消えてしまった。

 世界のどんな音も聞こえてきそうな妙に乾いた静寂の中心で、敷布の白より少し温い色の長い髪を四方に散らした男はただ昏々と眠り続ける。
 温い布団の中の、痩せた背にそっと手をやってみる。汗ばんで少し湿った布越しに感じる温度は不安な程熱くもなくこわばり冷えきってもなく、柔らかな人肌の温もりをもっていた。二、三度緩く擦ってやると、幽かな喘鳴を含んだ震える吐息が闇に溶けた。
 わずかな身じろぎに肩に掛かっていた髪がするりと落ちて、ふわりと彼の匂いがした。
 薄荷と水飴を混ぜたような、ツンとしつつも甘い匂い。いつだったか、病み上がりの彼に君はそんな香りがするんだと話したら、そんなことを言われたのは初めてだ、お前の気のせいだろう、とひどく笑われたのをよく覚えている。
 布団からはみ出した髪の先をそっと一房、身をかがめて拾い上げて指に絡ませた。長く臥せって少々艶を失った髪は普段より水気なく指に引っかかりもつれたが、やはり涼やかでどこか甘い香りがした。
 畳に着物の端が擦れる音がやけに大きく、ざらりと耳に響く。全てが常の何倍も鋭敏に感じられて、思わず己の呼吸を低く押しとどめたくなった。ほんの少しの音であっても増幅され大きくなって、彼のつかの間の眠りを悪夢に変えるやも知れない。

 風のそよぐ音が聞こえる。風となにかが擦れて発する音を、ぼんやりとした意識の隅で捉えている。
 穴が開いてしまったかのようにひゅうひゅうと隙間風を吹かせる、痩せた薄い胸がささやかに上下するリズムに知らずと呼吸を合わせている。

「浮竹、早く戻っておいでよ。待ってるからさ」
 彼が闇の淵から目を覚ます時にただ傍にいるのが、千古からの僕の役目。
 そしていつの日か永遠にその翡翠の瞳が閉ざされる時には、そっとおやすみを言おう。

 夜の帳が下りた、幻聴さえ聞こえそうな程深閑とした部屋の中で、ただひとつの生物の気配にじっと意識を傾ける。
 このまま、夜明けまで。