兄が東京に行っている三年の間に、父は近所に新しい家を建て、一家で住まいを新居に移した。
兄と僕が生まれ育った旧い家は、仕事場として使い続けることになった。一階の二部屋の間の仕切りを壊して荷捌き所を拡張し、二階の居室は間取りはそのままに職人達の集会所兼簡易宿泊所に姿を変えた。
帰郷してきた兄は、この旧家の一室で暮らすと頑なに言い張った。当然のように新居に迎え入れようとしていた父と母は困惑した。遠慮することはないといくら言っても、兄は意地を貫くばかり。結局両親が折れて、兄は旧い家の二階の、以前兄弟が寝室にしていた部屋で暮らすこととなった。
兄の体調は予想以上に深刻だった。教師の職を辞した直接の原因は、無理が嵩んで昨年の暮れに肺炎に罹り死にかけたからだと聞かされていたが、診察した池沢先生が言うには、肺炎の後遺症よりも厄介なのは生まれつきの喘息であるらしい。炎症を薬で抑え込めきれず、常に軽い発作が起きている状態だという。そのせいで体力が戻らず余計に発作を起こしやすくなるという悪循環で、池沢先生にも現状では対症療法以外に打つ手がないらしかった。
重い発作を起こしたときに誰もいないようでは最悪命に関わるし、移り病ではないのだから家族と距離をとる必要はないと、池沢先生も両親のいる家での療養を強く勧めた。それでも兄は頑なだった。何を言っても決意は揺らがず、旧家から離れようとしなかった。
兄は体だけでなく、心も壊してしまったのだと思った。今は何を言っても届かない。一度ずたずたにされた精神が再び誰かの言葉を受け止められるようになるには、まだ時間がかかるのだろう。
共に暮らすのを諦めた僕は、せめてもと日に三度の食事のうち朝と晩を旧家まで運び、仕事の許す限り隣室で寝泊まりするようにした。
兄は何も言わなかった。拒絶されなかっただけまだ救いがあると信じて、黙って兄の傍に居続けた。
兄が帰郷してきてから三カ月が経った。山里にもようやく爽やかな夏が訪れ、青々とした草木のにおいが日に日に眩しくなっていく。
兄は家からほとんど出ず、体調も一向に恢復しなかった。
兄は一日の大半を眠るか本を読むかしてひとりきりで過ごしていた。会うのは家族と、週に一度往診に来る池沢先生だけで、それさえも時折拒絶していた。誰の声も優しさも届かなかった。それほどまでに深いところに、兄の精神は沈んでいた。
たまに窓辺に凭れて、表通りのざわめきにぼんやりと耳を傾けていることがあった。そういうときの兄はどこか人をぞっとさせる気配を纏っていた。
感情の見えない、ただ光を映しているだけの瞳に、ぽつんと空虚が浮かんでいる。鼻筋に伸びた横髪がかかって、青い影を落としていた。
兄は窶れて、何故か昔よりも綺麗になった。繊細な硝子細工のようで、指先で触れただけで壊れてしまいそうに思えた。
本当は色々知りたい。もっと話したい。助けてくれと言ってほしい。だけどこれ以上壊したくなくて、取り返しのつかない結果を招くのが怖くて、あと一歩が踏み出せなかった。
「この部屋、私がいない間もずっと手入れをしてくれていたのですか」
ある日、夕食を持ってきた僕に兄は尋ねた。
兄は部屋をぐるりと見回した。兄弟が幼少期を過ごした部屋は、兄が東京に旅立ってからもほとんどそのままにしてあった。
「簡単に掃除はしていました。住まいを移してからも、仕事の関係でこっちで寝泊まりすることがあるから……特に高価な品を取り置いている間は、物盗りが入らないように寝ずの番で用心したり」
職人連中はよく階下の一間や廊下で適当に雑魚寝しているが、さすがに家の主人がそこで一緒に寝るわけにはいかない。そんなわけで二階の一部屋、元々兄弟の部屋だったところだけは改装せず、荷物も運び出さず、昔のままに残してあった。
「時が止まっているようだなと、思っていました」
兄は静かに言った。家族か池沢先生としか会話をしない兄の声はいつしか細く小さくなり、ほとんど囁きに近くなっていた。僕の知らない、三年間の痛みがそこにはあった。
「何も進まない、でも戻れもしない」
ただ、じわじわと朽ちていくのを待つだけの日々。そこから浮上するための力は、もう兄の中にないのかもしれなかった。
「私はいつ、終われますか」
ふ、と蝶が飛び立つように兄は顔を上げ、誰に言うでもない調子でそう口にした。
その目は何も映していなかった。淡い光が白い線となって瞳の端に透過していた。それだけだった。
僕は何も言えなかった。兄を水底から引き上げる言葉を、僕は持っていなかった。
目の前の肩がふいに揺れた。兄は苦しげに目を閉じた。喉の奥から息を殺すような咳がひとつふたつ溢れて、すぐに止まらなくなった。
胸元をおさえて蹲った兄の側に僕は駆け寄った。兄さん、と呼びかけても、兄はか細い呼吸を継ぐのに精一杯で返事ができない。
ヒュウ、と木枯らしのような音が痩せた胸から鳴った。青褪めた唇が酸素を求めて小さく震えている。
「ゆっくり息をして。大丈夫です、ここにいますから」
兄が人の温もりを求めていないことなど、とうに知っていた。
気がついたときには、僕の手は兄の背にあった。薄い着物の奥で、兄の体は不穏に発熱している。今夜はまたひどい発作を起こすかもしれない、と思った。薄氷を踏み割るような咳が今にも兄の身体を砕いてしまいそうで、指先に伝わってくる細い骨の手触りが恐ろしかった。
「僕が、守ります。僕が、兄さんを守る」
気がつけば口走っていた。これは僕の浅ましい利己心だ。兄はそんなことを望んでいない。
それでも、兄をこのまま死なせはしない。それが、僕が弟として成すべきことだ。
朽葉を散らすような喘鳴が聞こえる。ざらつく音を隠すように、兄は顔を背けた。