水底の朔 - 1/2

 戸に手をかける。幾度となく開けてきたそこに力を籠めるまでに一瞬の間を要した。言葉にならない、形を成さない罪悪感に似た躊躇いが心を満たして、手の力を失わせていた。
 人が来ることを想定してか、三和土たたきには豆電球が灯されていた。ああ、少なくとも拒絶はされていないんだな。それだけで苦しい逡巡が少し薄められたような気がした。
 うすぼんやりと照らされた三和土の隅に、見慣れない草履が揃えて置かれている。日常的にうちに出入りする職人や歩荷ぼっか達が履くのは草鞋わらじか登山用の一本歯下駄だ。おまけに彼等はいちいち丁寧に揃えて隅に寄せたりはしない。出たり入ったりを繰り返すうちに、どれが誰のものやら混然一体となるのが常なのだ。
 つまりは、と思う。本当に兄は帰ってきたのだ。

 兄が教師を志し、進学のため家を出てから三年が経った。その間に僕は高等小学校に進学し、卒業し、学問にはそこで区切りをつけて、この春正式に家の仕事を継いだ。
 まだ全てを任されてはいないが、数年以内に僕がこの家の実質的な主人になるだろう。実質的な、とつけたのは、僕はあくまで「家の仕事を継ぐ」立場の主人になるというだけで、家督相続権は変わらず長兄たる兄にあるからだ。
 こう言っては父に申し訳が立たないが、どうやら僕は父よりも商才に恵まれたらしかった。それは父だけでなく周囲も認めるところで、僕が家業を継ぐことに異を唱える者はいなかった。
 そんな頃合いに、帰ってくる予定のなかった兄が突然帰郷してきたらどうなるか。
 正直、どうしていいかわからなかった。兄が家にいるのに、弟が家業を継ぐことなど普通はない……普通は。普通ではないことが今まさに起ころうとしていた。
 兄はこの家を盛り立てるために帰ってきたのではない。兄は激務で体調を崩し、教師の職を辞してやむなく帰郷したのだ。それは責めるべきことではないし、致し方ないことだと十分わかっている。家族の間だけならそれでいい。だが、周囲は理解してくれないだろう。
 いまだ封建的な田舎の地において、家族に向けられる目がどんな色を帯びるか。兄は陰口にひどいことを言われるだろう。母は心無い言葉を囁かれるだろう。僕や父は無意味に憐れみの言葉をかけられるだろう。信頼面で仕事にも影響が出るかもしれない。そこから逃れる術はない。時間が解決してくれる、なんて悠長なことを言っている間に、食うにも困るようになるかもしれない。
 無意味な煩悶ばかりが頭を満たす。どうして、どうしてよりにもよって今帰ってきたのか。病身の兄にそんなことは口が裂けても言えないし、言うつもりもない。兄だって望んで帰ってきたわけではないのだから。それでも、せめてあと一年でも遅ければと思ってしまった。一年後なら僕は正式に仕事を継いで、家を支える存在として兄のことを快く迎え入れられたはずなのに。
 偏見はきっと生涯ついて回る。事情を知らない者から見たら、兄が存命だから家督は継がせるが、病弱で家業を継ぐに耐えうる体ではないから、そちらは仕方なく弟に任せたように見えるだろう。それがどうにも腹立たしかった。決して兄の存在を不満に思ったわけではない。ただ、自ら望んで引き受けた選択を「押しつけられた」ととられるのが嫌だった。
 それだけではない。兄だって立場がないだろう。この地で暮らす限り、きっと肩身の狭い思いをし続けることになる。僕がそのことに対して口を出せば出すほど、「食い扶持を稼ぐことすらできない長兄」という印象を強めてしまうのは目に見えていた。
 それなら、僕はどうしたらいい?
 ずっと守ってもらってきた。愛してもらってきた。離れている三年の間も兄は家族を気遣う手紙を送ってきてくれたし、教師として働き始めてからは、そんなことはしなくていいといくら言ってもお構いなしに、毎月少額の仕送りをしてくれていた。手紙の言葉や金銭よりも、何よりその心遣いがありがたかった。東京で立派に夢を叶え自活している兄が誇らしかった。ほんの少しだけ羨ましかった。
 だからこそ強く思う。今度こそ僕の番だと。何ができるかわからないが、とにかく今の兄を、家族を守れるのは僕だけなのだ。

 階段の軋む音が耳に突き刺さるようだった。静かな家の中を、気配を殺して歩く僕はまるで盗人だった。いっそこのままくらがりの内へと消えてしまいたい。そう思いながらも、足を止める選択肢はなかった。
 階段の突き当たりの襖の前で深く息を吐いた。自分の呼吸音がやけにうるさく聞こえる。
 この先に兄はいる。ずっと会いたかった、でも今は顔を合わせるのさえ気まずい兄が、すぐそこにいる。
「兄さん。……起きていますか」
 ようやく絞り出せた声はひどく頼りなかった。兄さん、と口に出すのは久々だった。身体が音を忘れてしまったかのように、それはどこか余所余所しく儚い響きをしていた。
 しばらく間があって、どうぞ、と柔らかな声が返った。記憶の中の声より少し低い、しかし間違いなく兄の声だった。それだけでわけのわからない涙が溢れてしまいそうで、僕はもう一度深呼吸した。
 なるべく音を立てずに襖を開ける。部屋の中央よりやや奥に布団が敷かれていて、兄はそこからちょうど身を起こしたところだった。
 兄はにこりともせず、ただ僕を見ていた。その視線は、一切の風を失った水辺のように凪いでいた。
 三年という月日は、人をこんなにも変えるものなのか。兄は、明らかに兄そのものでありながら、それでももう僕の知るその人ではなかった。
 たった三つしか離れていないはずなのに、ひどく大人に見えた。あまりに遠い存在に思えて、家族としての情よりも先に、見ず知らずの他人と相対したかのような感覚を抱かせた。
 こんな風に真っ直ぐ見つめてくる人だっただろうか。こんなにもはっきりとした気配を纏っていただろうか。記憶の中の兄は、柔らかな清流のような人だった――決して人を翻弄せず、荒々しいところも見せず、迷う心にそっと手を伸ばして受け止めてくれる人だった。
 今は違う。変わってしまった。兄の時間はある一点で止まってしまったかのようだった。流れを失ったまま、ゆっくりと凍っていくようであった。
「直次」
 何も口にできず立ち尽くす僕を落ち着かせるように、兄はただ一言、僕の名を呼んだ。そこに再会への情は感じられなかった。
 兄の声で、途端にあの日の記憶が蘇った。三年前、兄が東京へと旅立つ日のこと。汽車を待つ歩廊で、同じように動けないでいた僕を、兄はそっと呼んでくれたのだった。あの日向けてくれた声は限りなく優しく、少しだけ寂しそうだった。別れを飲み込みきれずに戸惑う僕を、兄の視線は真っ直ぐに射貫いた。
 別れのとき、いつか自分が家業を継いでもいいのかと尋ねた僕に、兄はふわりと笑って――
 当時の兄の歳になってようやくわかった。兄がどれだけの覚悟をこめて、あの言葉を贈ってくれたのかということを。どれほど僕のことを案じ、信じ、そして愛してくれていたのかを。
 今の僕に同じことができるだろうか?

「ごめんなさい」
 静寂に落ちた兄の声で、現実に引き戻された。
 兄は視線をやや落として、謝罪の言葉を口にした。罪状が言い渡されるのをじっと座して待つような態度だった。
「しばらく、ご厄介になります」
 兄は双手をついて深く頭を下げた。指先まで意識の通った、美しい手はしかし病的に細かった。昔の、若枝のような少年の腕ではなかった。三年の月日を遠き帝都で必死に生き、一度は夢を掴みかけて溢した、枯れた男の白い腕だった。
「兄さん、……おかえりなさい」
 どう言葉を繋げたらいいのかわからない。何を口にしても、兄を傷つけてしまいそうな気がした。
「しばらく、だけですから」
 兄は顔を上げぬまま、静かな声で言った。
「何言ってるんですか、ずっといてくれたって……いや違う、そういう意味じゃなくて。兄さんが恢復するまで、いつまでだっていてくれていいんですよ」
 『しばらく』なんて、まるでもうすぐ死にますと言っているようじゃないか――そう感じて咄嗟に言葉を重ねた。
 兄はそれには何も返さず、疲れたようにひとつ、ふたつ咳を溢した。掠れて重さのない、病に身も心も傷つけられた咳だった。
 膝の前でぴったりと畳につけられた手が僅かに震える。やがてその手は躊躇いながら胸元に向かい、掠れた呼吸を殺すように押しつけられた。
 兄も僕も、もう昔には戻れない。一度壊れたものは、二度と同じ形には成り得ない。
 その日、僕はひとつの覚悟を決めた。