「啓司くんよりも手紙を書くのが様になる女性、と。妙な条件ですね」
仲人を引き受けるようになって数年が経ちますが、そんな条件は初耳ですね。冗談か誠か曖昧な口ぶりで池沢は言う。
「真に受けないでくれ。大体、先生を思い出すなんて言い出したのはそっちの方――」
がらんと何かが落ちる音に会話が途切れた。
振り返ると、いつの間にやら処置室のドアが開いていた。開いた拍子に棚から少しはみ出していた膿盆が落ちている。音の正体はそれだろう。
「おお、直次。おかえり」
ドアを開けた恰好のまま、入ってこようとしない小柄な人影に片手を上げかけて――
「兄さんを、そんな目で見ていたんですか」
落ちた膿盆を静かに拾い上げた直次は、ひやりとする声で呟いた。ほとんど抑揚のない囁きにも近い声は、部屋の温度を下げるには充分だった。
「おやまあ」
どうします? 池沢はのんびりと藤倉を見遣る。
「違う、誤解だ。言葉の端だけ聞いたんだろう」
兄とよく似た切れ長の目がこちらをまっすぐに射抜くので、半分上げたままの手を戻す場所が見当たらない。誤解させたのは自分だけのせいではないはずだ。救いを求める視線を向けるも、池沢は面白がって肩を竦めるばかりだった。
「……兄さんには僕から伝えておきますから」
直次の冷ややかな声は感情をいっさい削ぎ落としたように、鋭利に響く。
「待て待て余計に話が拗れるだけだろう!」
慌てて立ち上がった藤倉を置いて、直次は静かに、軋む音ひとつ立てずに処置室のドアを閉めた。
しばらくして、不安定に棚に戻された膿盆がまたもがらんと音を立てて転がった。
「……どうしたらいいんだ」
「時間が解決するのではないでしょうか」
面白いものを見たという顔で池沢は晴れ晴れと笑った。
――兄さん、知っていますか。藤倉さんがよく池沢先生のところに行くのは、ただ兄さんの薬をもらうためだけじゃないんですよ。
真意ではないことを知っていながら、直次はその話をダシによく藤倉をからかった。
波乱に満ちた第一回目以降、池沢による結婚相談所は結局開かれていない。旅人に春がくるのはまだ随分と先のことになりそうだった。