「藤倉さんは結婚する気はないんですか」
ワイシャツを直しながら、注射器を片付けながら。まるで今日の夕飯はなんですかと尋ねるくらいの気軽さで池沢は訊いた。
「は?! ……なんだ、藪から棒に」
「その反応を見るに、考えたこともなかったというわけではないんですね」
「まあ……上に兄二人がいる時点で、いずれは婿に出される身だと思っていたからな」
それも今となっては関係のない話だ。突然何をと面食らいながらも、しどろもどろに答えた藤倉に池沢はうんうんと頷いてみせる。
「それはなにより。所帯を持つこと自体に興味がないのなら、無理強いはできませんから」
手入れを終えた器具をしまうと、池沢は顔を上げた。そこには先程よりも一層底の見えない笑みがあった。
「お見合い、してみませんか?」
藤倉は今度こそ素っ頓狂な声を上げた。
「藤倉さん。この小さな町で、一番人が集まるのはどこだと思いますか?」
学歴も家もない男と見合いで結ばれたい女性などいるわけがないだろう。慌てる藤倉に、池沢はまあ落ち着いて、と着席を促した。
「……集会所と、茶屋か?」
「ご明察。その次に多いのが、ここです。町にひとつきりの医院ですからね。人が集まれば、話も自然と集まってくる。……もうおわかりでしょう?」
「相手を探しているという噂も集まるわけだな」
池沢は満足気に頷くと、棚から一冊の帳面を出してきた。
「なんだ、それは」
「診療録と同じくらい守秘義務の重い情報、とでも言っておきましょうか」
帳面をぱらぱらと捲る池沢の目つきが、気づけば仕事時のそれになっている。そうか本気なのか、と藤倉は遅まきながら理解した。
「藤倉さんの場合、家同士の繋がりを求めるところではなく、女系で単純に跡継ぎのいない家が良いでしょう。……いや、そうとも限らないか。藤倉さん、貴方たしか東京の高校を出ていましたよね――」
「すまない、言っている意味はわかるのだが、内容がさっぱり入ってこない」
勝手に進められる話に目眩を覚えそうになる。
「池沢先生こそ引く手数多だろうに、今も独り身なんだな」
「私ですか?」
医者は見合い話に困ることはないという。都会の大学病院勤務ともなれば、それこそ引っきりなしに舞い込んでくるほどだ。
いくら片田舎の個人診療所の主とはいえ、四十も近い池沢が今も独り身を貫いているのには何か特別な理由があるのだろう。苦し紛れな言葉を投げると、池沢は春の日を思わせる柔らかな表情をした。
「かつて結婚をお約束した方はいましたよ。心臓を悪くして、早くに亡くなってしまいましたが」
この医院を立ち上げた先代医師、私の師匠にあたる方の娘さんでした。帳面に落とされた視線が一瞬揺らいで、昔日の色を灯すのを藤倉は見た。
流れ暮らして気づけば幾数年、いつかどこかに落ち着く我が身は考えれど、誰かと未来をともにする想像はしてこなかった。誰かと所帯を持ち、家庭を築くことの良さはよくわからない。死に分かたれるまで添い遂げるだとか、毎朝毎晩囁かれる愛の言葉は美しいかもしれないが、実体として掴みきれない危うさの方が余程際立って見えてきてしまう。綱渡りをする芸人を下から手を叩いて眺めているのはいいが、自分が綱の前には立ちたくないのと同じだ。
しかしそれは、己のことだけを考えるときに得る結論であるとも思う。自分が一本綱の前に立つとき、その向こうにいる相手もまた不安定な一歩を踏み出さんとしているのだ。
「……わかった。前向きに考えてみるよ」
自ら危険な道を渡りきって相手をしかと抱きしめてやることはできずとも、不安定な相手に手を差し伸べることくらいはできるかもしれない。それが誰かの人生を今より幸福なものにするのであれば、喜ばしいと思う。
「本当ですか! ああよかった、それでは遠慮なく」
藤倉の返事に、池沢は途端に顔を輝かせた。きっと彼ならば、町の誰が結婚しても同じ笑顔を向けることだろう。こういう人だから、町の人も彼を信頼して見合い話を預けるのだ――もっとも、医者の仕事も抱えた上でそれでは業務過多になりやしないかと些かの不安を覚えるのだが。
「例えばそう、あちらのお宅のお嬢さんはとにかく器量よしです。女学校こそ出ていませんが、そうとはにわかに信じられないほどよくできて……世継ぎがほしいというより、ただひたすらにお嬢さんの幸せな人生を望んでいるようです――」
調子づいた池沢の話は止まりそうにない。そういえば先ほど奥に引っ込むときに、処置室のドアに掛けられた『診察中』の札をひっくり返していたことを思い出した。初めから見合い話を振るつもりで待ち構えていたのか。
「ま、待ってくれ、そんなにいきなり話を進められてもわからない」
「ああ、すみません。そうですよね」
困惑する藤倉に、池沢も尤もだと頷いた。
「ずばりとお訊きしてしまいますが……藤倉さんはどんな女性が好みなんです?」
藤倉は戸惑う。どの娘が好みだ口説いたのかといちいち騒ぎ立てていた学生時代は遠い昔に過ぎ去ってしまったし、そもそもこの人を娶るのだという意識で女性を見たこともなかった。
「そうだな、あまり考えたことはなかったが……姿勢の綺麗な女性は好ましいと思う。すっと通った所作、とでも言えばいいのか……」
「華道の家元のお嬢さん、といった感じでしょうか」
「いや、そうではなくて……普段の何気ない所作に芯の一本通った風情があるような……ああ、手紙、手紙を書く所作が美しい人は良いな」
「手紙、ですか……」
どうにも的を射ない藤倉の答えに、池沢はううんと唸って黙り込む。
「すまない。気立てが良いとか料理ができるとか、そういうことを訊かれているのはわかっているんだが、どうにもしっくりこなくてな」
次までにもっときちんと考えておくから。謝る藤倉に、池沢はいえそうではなくて、と逡巡を眉間に浮かべたままに首を振った。
「その……藤倉さん、怒らないで聞いてほしいのですけれど」
「?」
「……手紙を書く所作が美しい人、と聞いて、私の頭には啓司くんしか浮かばなくて」
あまりの結論に藤倉は爆笑した。
「っははは、たしかに先生はよく手紙を書いているな」
「すみません……仲人役失格ですよね」
どうしてもあの、凛とした背姿が目裏に浮かんできてしまって。肩を落とす池沢を宥めつつ、たしかに自分が言わんとしていたのはそういうことだったのだろうと藤倉は密かに思った。
「筆まめだなあとは思っていたが……そういう相手でもいるんだろうかね。無粋な詮索かな」
虚弱な身ゆえ家を継げないとしても、あれだけきちんとした人だ。親密な関係にある相手がいたところで、何の不思議もない。
「ああ、あれは違いますよ。お相手は師範学校時代のご学友だそうです」
しかし藤倉のそんな想像を、池沢はあっさりと否定した。
「へぇ、それは初耳だ。その……向こうに大事な人を残してきたのだろうか、などと考えてしまって、どうにも軽々と聞けなくてな」
「青春時代をともに過ごし同じ夢を抱いた、いわば盟友だそうで。今も文を交わしているなんて、良い友に恵まれていますよね」
私の学生時代の友なんて、獨逸に行ったきり便りのひとつも寄越しやしませんよ。あれだけ世話してやったのに、全く薄情な男です――池沢の昔語りがまたも繰り広げられそうな気配を察して、藤倉は慌てて話題を戻す。
「そういや、この間北の方から手紙とともにものすごい量の食糧が届いていたが、あれももしや」
「ええ、北海道出身のご友人がいるとか。名をなんと言ったかな……まあとにかく、毎年この時期にどっさり海の幸を送ってくれるんです。いつもあまりに大量に届くので、私もおすそ分けをいただくんですよ」
次は直接聞いてご覧なさい。きっと喜んで話してくれます。池沢は微笑んで帳面を閉じた。