夏に入り気温が高い日が続くようになると、先生は体調を崩すことが増えた。周囲を山に囲まれたこの町は、近隣の土地よりも気温が高くなりやすいという。もっとも、先生の体調が優れないのは気温のせいというより、強く雨が降ったかと思いきや翌日は雲ひとつなく晴れるような変わり身の早さが原因らしかった。
人を呼びにくい夜に限って発作が重くなるのが、喘息という病の厄介なところだ。安静にしていれば渋っても明け方までには治まるのが常だったが、時折太陽が昇る頃になっても横にすらなれない日がある。そういうときには内服の薬だけではどうしようもないので、注射や吸入といった処置のできる池沢を呼ぶことになるのだった。
非常時の足代わりをしているだけではいけないと思い立ったのが二週間くらい前のこと。住む家を快く提供してくれた先生には感謝してもしきれないくらいだし、長く留まる気はないとはいえ、ひとつ屋根の下で生活をともにしている以上は当然のことだ。
薬を受け取るついでに応急処置の仕方を教えてほしいと頼み込んだ。しかし目論見は外れ、あっさり断られてしまった。それは医者の仕事です、藤倉さんが気に病む必要はありませんよ。夜中でもいつでも、呼んでくれて構いませんから――やんわりと、しかしはっきりと一線を引いた池沢に、何度願い出ようと同じことだった。
だからといって、はいそうですかと簡単に引き下がるわけにもいかない。正面から挑んで駄目ならば、やり方を変えるまでだ。
薬を受け取りにいく度に思いつく限りの質問をぶつける。それが藤倉の次の手だった。急に熱が上がったときにはまず何をするべきか、慢性的な貧血と暑気中りを見分ける方法は、咳に効く食べ物は――具体的に訊けばその分、具体的な答えが返る。医術は与えられずとも知識は盗める。日頃気になったことは逐一書き留めておき、医院に出向いては時間の許す限り質問し続けた。
先に折れたのは池沢の方だった。いまひとつよくわからん、と首を傾げながらも訊いたことを手帳に書き込む藤倉を見て、池沢はふっと昔を思うような目をして言った。――吸入の補助の仕方を教えましょうか。
根負けしました、と池沢は笑った。今から二十年以上前になりますでしょうか。高等小学校を出たばかりの尻の青い若造が、ちょうど今の藤倉さんと同じ手を使って医者に弟子入りしようと企んだんですよ。ここで勉強させてもらえるまでは毎日でも通ってやると息巻いて、門前払いされても処置室の窓から入り込んで。今思えば厄介な子どもでしたねえ。昔日の記憶に目を細める池沢に、藤倉はようやく認められた思いがした。
そういうわけで、応急処置の方法を習い始めてしばらく経つ。近頃は注射のやり方を覚えるために、池沢にビタミン注射の練習台になってもらっていた。
「今日も、頼めるか」
「勿論、構いませんよ。……近頃これのせいか、妙に元気よく働けるんですよね」
池沢はワイシャツの前を開けると、片腕を露わにする。
「本当に、悪い影響はないんだろうな」
「大丈夫ですよ。遠慮なくどうぞ」
腕を差し出して、池沢はすいと目線を外す。じっと見られているのも変に緊張してしまうので、ありがたい気遣いだ。
上腕を目視と指で測って、打つ場所の見当をつける。肘から指四本くらい上、肩からまっすぐ線を下ろして結べる位置で、肉がついていて軽くつまめるところがいい。
こうしてみるとやはり先生は華奢なのだなと思う。病的に細いと言うほどではないが、ぐっと力をこめたら折れてしまいそうな脆さを感じるのは、健常な肉体には当然あるべき何かが欠けているからなのだろう。池沢も体格が良いと言えるほどの身体はしていないが、先生と比べると筋肉も脂肪も程よくついている、一般的に健康な肉体であるとわかる。
「そこまで神経質になる必要はないですよ。正確に血管に打たなければならない手技とは違いますから」
まあ、上手くできれば痛みは減りますけれど。池沢はにっこりと笑う。普段裏表なく穏やかな人間の含み笑いほど底の見えないものはないなと、藤倉は注射器を持つ手に汗をかきながら思う。
消毒した針を肌に近づけて、もう一度刺す瞬間をイメージする。肌と注射器の間の角度は指二本分。短く息を吸い込んで止める。揺らさないよう意識するとかえって不安定になるので、手元よりも目線を固定するようにして、すッと一息。注射筒に血液が上がってこないことを確認して初めて、ひとつ、ふたつ、とゆっくり数えるくらいの速さで薬液を注入していく。
「お見事です。手慣れてきましたね」
押子を支える手の力をもう少し弱めると、刺してからも角度が安定します。言葉は少ないが的確な池沢の助言をいつものように書き留めて、藤倉はようやく肩の力を抜いた。
「一週間は消えない青あざをこしらえたときよりは上達したかな」
「手技の優劣より、最後まで落ち着いていられることの方が上達の証ですよ」
発作を起こした先生を前にしても顔色ひとつ変えず、鮮やかな手さばきで処置をする池沢を何度も見てきた。褒められて悪い気はしなかったが、自分には到底できないだろう。