二 葭始生 - 2/2

「平野君、困るんだよ」
 教員室に戻り自席に腰を下ろすや否や、隣の席の教師に肩をつつかれた。
「師範出の教師を重宝がるのはね、そつのない教授をできるからだ。お国の指導に沿って、みんな一緒に、同じところまで進まなくてはならない。それを好き勝手やられちゃ困るよ」
 昼食代わりのパンを口に運びつつ、嗜める口調で彼は言う。
「教授細目の意味はわかっています。それが数多の教育者や現場の人間が議論を重ね生み出した、理に適った指針であることも。けれども最終目的は細目に書かれたことをただ覚えさせることではなく、自ら学ぶ力を子ども達に授けることではないですか」
 全然わかっていないと、彼はため息まじりにやれやれと首をふった。
「例えばだ。ある子どもが親の仕事の都合で引っ越すことになったとして、学校を変わるとする。その子どもは行った先の小学校で、こことは全く違う授業を受けてさぞ戸惑うことだろうね。どうしてそんなことになるかって? 誰かさんが教科書そっちのけの授業なんてするものだから、同じ学年でも進度が違うんだよ」
「細目からかけ離れるほどのことはしていません。それぞれの期間に学ばせるべきことはやらせているつもりですし、教科書が授業の中心にあることは変えていません」
 彼は苛立ちを隠そうともせず、神経質に膝を揺らしている。
 私のやり方が、授業に対する意見が何故そこまで彼の神経を逆撫でるのかわからなかった。彼のやり方を否定したのならわかるが、そういったつもりもない。
 不必要に意地を張りすぎるのはよくないなと思う。それでも、よくわからないことをそのままにして、仰せのままにと従いたくはなかった。
「足並みを揃えることがそこまで重要ですか」
「黙って細目に従えばいいと言っているんだ! そんな簡単なこともわからないとは、師範出の教師も落ちたものだな!」
 大きな声が教員室に響き渡って、ちらちらと他の席から様子を窺うような気配がさっと引っ込んだ。面倒事には関わらないのが一番、といったところだろうか。
 感情のままに大声を上げたのはさすがに行き過ぎたと思ったのか、彼は苛々と机のあちこちを手探りし、やがて棚の隅に転がっていた煙草を見つけて火を点けた。
――この距離は、すこしまずいか。険悪に言い争った手前、あからさまに席を立つのも憚られて、俯きがちに顔を背けるに留めた。
 教員室では誰もが当たり前のように煙草を吸った。自分ひとりのために気を遣ってくれなどと言えるわけもなく、発作に繋がりそうなときは仕事を持ち帰ったり、授業の終わった教室を間借りしてこなしたりしていた。
「おい、まだ話の途中だろ」
 顔を背けたのを会話の拒絶ととったのか、彼は紙束の山から身を乗り出してきた。
「すみません、少し――煙草は、苦手で」
「なんだって?」
 彼に悪気はないのはわかっていた。むしろ腹を立てたのを落ち着かせて冷静に議論を続けるために、煙草を求めたのだということも。
 煙の臭いが喉を刺して、こらえきれず二、三咳き込んだ。これ以上は、本当にまずい。

「まあまあ、それくらいにしておきなさい」
 誰もが恐々と遠巻きに見ていたところに、救いの手がひとつ。
 柔らかな目をした老教師が、収まりのつかない二人の間に割って入った。
「教師が熱心なのはいいことだね」
 ただ、意地を張り過ぎるのはよくない――お互いにね。それと頭を冷やすなら一旦距離を置きなさい。話の続きはそれからだ。

 行きなさい、と老教師は目で告げた。わかっているから、とも言っているように見えた。
 この学校に赴任してから、まだ誰にも身体のことは伝えていない。安定して働き続けたいのなら言うべきことではないし、何より師範学校の恩師が苦心してここを推薦してくれたのを、無下にしたくなかった。
――平野、お前のことだから、どうせ働き始めても身体のことは言わないつもりなんだろう。知ってるんだよ、お前の頑なさは二年間で嫌というほど見てきた。
 敢えて厳しいことを言うけどな。そのままじゃ、身体保たねえぞ。次は数週間入院するくらいじゃ済まない、自分でわかってるんだろ。ああ誤解はするな、諦めろって言ってるんじゃない。これから教師になる若者へ、先輩教師からの助言くらいに思っておいてくれ。助言にしちゃ重いって? 言うな、言うな。
――推薦先の学校の信頼できる人間にだけ、お前の身体のことを先に話しておいた。触れられたくない部分を勝手に暴いたのは悪いと思ってる、申し訳ない。けどな、お前を守ってやるためにできることは、もうこれくらいしかないんだよ。
 誰に話したのか教えてほしい? 駄目だ、教えたらその人に萎縮するだろ。
 安心していい、その人は俺の大先輩にあたる人だ。間違いなく信頼のできる人だ。きっとお前を上手く導いてくれる。
 師範学校を卒業する前日、世話になった恩師に言われたことを思い出していた。
 恩師が自分のことを託していった人が誰なのか、わかったような気がした。

 やはりあの煙草がまずかったのか、胸の浅いところにひっかかるような咳が止まらない。夜にかけてひどくならなければいいが、と気休めにもならないことを考えながら、少しゆっくりめに下宿への帰り道を歩いていた。
「ちょいと、そこのお兄さん」
 大通りに出て少ししたところで、店先に立つ男に呼び止められた。顔を上げるとそこは薬屋の前で、愛想のいい笑みを浮かべた男が少し店を見ていかないかと手招きしている。
「その咳、一見したところ風邪じゃあないね。昔からのもんだろう」
 ええ、まあ、と曖昧に答える。全くの素人ではないとはいえ、医者でないものにもすぐそうとわかるほどひどい咳をしていただろうか。
「最近売り出されたばかりのいい咳止めがあるんだ。ひとつどうだい」
 新聞にも広告を載せたんだが、いまいち反応が薄くてね。ここらじゃまだ知名度低いけれど、日本橋や浅草界隈ではもうかなり広まっている薬だ。名の通った役者が宣伝して、あっちじゃ結構流行っているよ。
「すみません、薬は間に合っているんです」
「大丈夫大丈夫、身を壊すようなもんじゃないよ。お兄さん見るからにお堅そうだし、うちはそういうの勧める店じゃあないから」
 やんわりと断ったのだが、男は試すだけでもとなおも勧めてくる。結局断りきれずに一包買ってしまった。
 下宿に帰り、改めて包みを取り出してみた。半透明の薬包紙の中に、薄赤い丸薬がひとつ入っている。配合している漢方の色だと薬屋の男は言っていた。
 どうにも試す気になれなかった。捨ててしまおうかとも思ったが、別に毒を買わされたわけでもなし、いつか役に立つこともあるかもしれないと思い直して、ぞんざいに机の抽斗に放り込んだ。