下宿の玄関を出ると、穏やかな春の陽光が輪郭を温めた。
昨日までは花曇りが続いていたが、今日は久々によく晴れている。もうすぐ満開を迎える桜が、遥かな真空色目指して淡い薄絹をめいめいに伸ばしていた。
高く手のひらをかざすと、指先に空の青が溶け込んだ。ずっと遠いところにある筋雲にも、こうして手をかざせば触れられるような気がした。
今朝目が覚めるまでに揺蕩っていた夢の中でも、似たような青い空を見上げていたように思う。これまで見た中で一番深くて澄んだ空。先に待つもの全てを肯定してくれるような、祝福の青――ああそうか、師範学校に進学するために旅立った日のことを再上映していたのか。
旅立ちの朝という意味では、今日も同じだ。かつてよりは先の見えない不安を覚えることは少なくなった。この身にだって、ただ待つばかりではない、自ら道を切り開く力が備わっていることを知ったからだ。気まぐれな身体は相変わらず思い通りにはならないが、どうにかやれそうな気がしてもいる。悪く言えば向こう見ず、良く言えば臆せず飛び込んでみる勇気を胸に、ようやく手にした未来図にはじまりの日付を書き込んだ。今日はそんな船出の朝だ。
今頃、彼等もそれぞれの場所で一歩を踏み出しているのだろうか。桜並木の下を歩きながら考えるのは、師範学校で二年間を共に過ごした学友達のことだった。
浅草の程近く、活気と商売っ気あふれる下町の小学校に赴任した枡谷は上手くやっているだろうか――そういえば生まれ育った街の雰囲気に似ていると喜んでいたっけ。友人達の中で一番、確固たる自己を持っていた彼のことは心配には及ばないだろうけれど、たまに無理に笑おうとすることだけが気がかりだった。いつかその孤独に寄り添う優しさと出会えますようにと願っている。
枡谷と対照的に(思えば、彼等はいつだって対照的だった)山の手の落ち着いた高級住宅街の片隅に佇む小学校に赴任した原島は、卒業と同時に幼馴染みの想い人と結婚し、ささやかで優しい夫婦生活を始めたという。しばらくは二人で気ままに暮らしたい、と友人達の中でも騒がしくしそうな面々には新居を決して教えなかったと聞くが、本当だろうか。
同室の友人達の中でただひとり進学することを選んだ播本は達者でいるだろうか。彼とは寮の部屋で、講義の延長線のような話をよくしたものだった。寡黙なようでいて、本当は人と議論を戦わせるのが好きなのだ。誰もが見て見ぬふりをする時代遅れの旧習にも果敢に疑問を投げかけられる彼ならば、いつの日にか彼自身も想像し得なかった大きな何かを生み出せるような気がしてならない。
故郷の北海道で教鞭を執ることを選んだ野宮は元気にしているだろうか。鞄に収まりきらない大荷物を両手と背中に抱えて、目一杯の笑顔と大粒の涙を残して寝台列車に乗るのを見送ったのが二週間前だから、遠い北国にもそろそろ帰り着いた頃だろう。教職の傍ら小説を書くとも言っていたから、いつか東京でも彼の名前を目にする日が来るかもしれない。
東京と隣県との境に位置する山村の小学校に赴任した本江はどうしているだろうか。子どもと教師の数を合わせてようやく二桁を数えるくらいの小さな学校で、これからどんな日々を送るのだろう。願わくば、どんな荒波も不条理も乗り越えて、彼の目指す教師の背姿を追い抜いていけますように。いつかふたりきりの夜に話してくれた、理想の教室を形にできますように。苦しかったときに、幾度となく精神的に支えてくれた友の行く先が、明るいものでありますように。
目指す姿も立つ場所も違えど、僕等は盟友だ。ひとつ屋根の下、小さな部屋から旅立った仲間だ。そう思えば巣立ちの緊張も少し和らいだ。ひとりではないと思えるのは心強かった。本当に、良き友に巡り会えたものだ。
私が赴任したのは、師範学校からそう遠くないところに位置する小村の学校だった。村の北側には古くからの街道に連なる屋敷町があり、南側には近年できたばかりの陸軍の練兵場や、日々開墾の進む田畑が広がっている。学校は北の屋敷町から少し外れたところ、まばらになった家々の間に桑畑が残るあたりに静かに佇んでいた。生徒数はそう多くはないが歴史は深く、維新後にこのあたりに移り住んだ教育家が開いた私塾が発祥だという。
街道から続く大通りをひとつ外れ、両手に桑畑を携えた緩い坂道を登っていくと、途中の細道から子ども達が次々と合流してきてなんとも賑やかになってきた。
「おはようございます」
我先にと追い抜いていく子ども達に挨拶をしてみた。声に気がついた子どもが何人か振り返り、きょとんと首を傾げる。見慣れない顔だとすぐにわかるのだろう。にこりと笑ってみせると、子ども達はぴょんと背を伸ばし、おはようございますと揃ってぎこちない挨拶を返した。
坂を登りきると、ようやく校庭に続く階段が見えてくる。下宿から学校まではおよそ三十分くらいの距離だった。
ふんわりと苔の覆う石階段を登ると、赤土の校庭の先に校舎の全貌が現れた。高く澄んだ空によく映える、塗り直したばかりの赤い屋根が燦々と陽光を浴びている。二階建ての校舎は板目模様の煤けた木の外壁に支えられ、光をいっぱいに取り入れる大きな窓が等間隔で並んでいた。
教室棟の隣には屋内運動棟と宿直小屋も揃っている。近隣の集落に点在する分校に貸し出すこともあるらしく、小さな敷地のわりには設備の整った学校だった。
思わず足を止めていた。白い花が目の前を舞い落ちて、綺麗な五指を広げたまま校庭を転がっていく。
早春の高い空に子ども達の声が聞こえる。ふいに立ち止まった私のことなどお構いなしに、子ども達はどんどんと追い抜いては校舎の中へと消えていく。
ここで私は教師になるのだ。ここで生きて、明日を紡いでいくのだ。
純粋に晴れやかな今日という日をまだ信じられないでいた。道の先が選んだ通りに真っ直ぐに提示されたことなどこれまでなかった。選ぶ前から奪われていく現実を、疑うことさえしなかった。
そんな当たり前が、今この瞬間から変わろうとしている。
手を伸ばすことを自身に許したら、目に映る世界が広くなった。誰かの言った限界をただ受け入れるより、まずは自分を信じてみたくなった。
未来を誰かと共有したくなった。私というちっぽけな存在の全てを賭けて、全力で生きてみたいと初めて思えた。