突然の編入生の登場に戸惑う暇もなく、翌日から予定通りに二年生の授業が始まった。知り合いもない中で右も左もわからないようではさぞ不安だろうと、播本の側には平野がつきっきりになっていた。しかし無言で言われたことをこなす他に、播本は碌に口をきこうともしなかった。ひとつ後ろの席から見ているだけで腹立たしいその態度に、本江は思わず何度か余計な口を挟みそうになった。しかし感情を殺して努めて穏便に事を進めようとしている平野の足を引っ張るわけにはいかない。頭に浮かんだ口の悪い言葉を飲み込むうちに、何故か体重が少し増えた。ささくれた気持ちのままに夕飯を食べすぎたのが原因らしい。
本江は何もできないままだった。早々に心を離してしまったらしい桝谷と原島の間に立つこともできなければ、孤軍奮闘する平野に上手く寄り添うことももできなかった。そんな自分がひたすらに悔しかった。
「次は別棟での授業なので、早めに行かないと間に合わなくな……」
「君、僕のことを馬鹿にしているんだろう」
一限の終わったざわめきの中でも目立って聞こえた刺々しい声に、本江の意識は現実に引き戻された。周囲の生徒も不穏な空気を察知したのか、それとなく距離を取っている。
「……そんなつもりはありませんでしたが。何か気に病むことを言いましたか」
すげない一言を浴びせかけられた平野は一瞬表情をなくしたが、すぐにいつもの柔らかな雰囲気を取り戻す。自分だったら売り言葉に買い言葉で喧嘩をしてしまいそうな場面でも、冷静な友は己を律する術に長けていた。
「ああしろ、こうしろって毎日毎日しつこく偉そうに。僕はそんなに頭が足りなく見えるらしいね」
もういい、構わないでくれ。播本はなおも冷たく吐き捨てる。
「なあ、そないな言い方ないやろ。君のことを思って親切にしとるのがわからんか」
外野を決め込むつもりがついに黙っていられなくなったらしい桝谷が、二人の間に無理矢理割って入った。
「平野クン、もうええよ。いくら監督生でも同室でも、そこまでしてやることあらへん。放っておいたらええんや」
ですが、と食い下がる平野に、もう充分やと桝谷は告げた。苛立ちのせいかその声は固い。
「親切。親切ね。お節介って言葉、知ってるか? 知らないよな。授業も低級なら学生も低級だもんな」
一触即発の空気に、自ら油を注いだのは播本だった。
「……喧嘩売っとんのか?」
桝谷の声が低くなる。ああ、これは本気で怒っている声だ。
「ありのままを言っただけさ。仮にも師範学校、教師を志す学生の集団だからなんとかなるかなと思っていたけれど、中学相当の学問をゆっくりのんびりやってるだけ。高小出身者が行くところは所詮こんなものだよな」
「大概にせェや」
桝谷は播本の胸倉を掴んだ。ぐっと身を乗り出した桝谷に圧されて、播本が一歩たたらを踏む。やはり背丈は播本の方が少し上だが、体格では桝谷の方が勝るらしい。
怒りに震える右手が僅か持ち上げられる。拳が飛ぶ前になんとか止めねばと思う理性とは裏腹に、いいぞ桝谷そのまま一発殴ってしまえと叫ぶ本心が足を竦ませた。
「こんなところにいたら人間腐るだけだ。僕は早々にいなくなるつもりだから、君達も僕に構うなよ」
掴まれた胸元をぱしりと払いのけ、播本は教室を出ていった。
「……ああ、けったくそ悪」
忌々しげに桝谷は呟くと、怒りを鎮めるように目を閉じた。行き場を失った拳を何度も左手の手のひらに打ちつけて、呻くような深いため息を吐いた。
かたん、と小さな音。二人のやりとりを茫然と立ち尽くして見ていた平野が、突如ふらりと足元を揺らがせて机に手をついたところだった。
「大丈夫?」
慌てて肩を支えると、平野は血の気の引いた口元を軽くおさえて何度か弱く頷いた。
「すみません……少し、驚いてしまって」
「堪忍な。……黙って見ていられなかったんや。余計にしんどい思いさせたな」
平野はしばらく何かを考え込んでいるようだった。
怒りより悲しみより、まず考えることに意識を傾けてしまう友のことをどうしたら守れるだろうか。本江にその答えは見えなかった。見えなくても見つけなければならないと思った。そうでなければ、こうして共にいる意味がない。
皮肉にも播本は勉強が良くできた。熱心に授業を受けているようにはとても思えなかったが、試験となるとあっさりと好成績を連発し、あれよという間に学年主席の座を平野から奪い取った。試験の出来では平野も大差ないのだが、出席率の関係でどうしても敵わない。
「噂に聞いた。あいつ、一高に落ちて仕方無く、編入試験受けてここに来たんやて」
月もない暗い夜、持て余す鬱屈した心を吐き出すように桝谷は言った。
「おれも雑誌部の連中に聞いた。高等師範の募集期間が過ぎてたから、嫌々だって」
応える野宮も浮かない顔をしている。誰とでも笑顔ひとつで打ち解ける野宮がこうまで手こずる相手など、これまで見たことがなかった。
「天下の一高かて、あないな性根の腐ったやつ欲しがらへんわ」
「やめてください。同輩を悪くいうものではないです」
静観していた平野が堪りかねて声を上げた。心無い言葉に傷つけられてもなお、平野は相変わらず播本に寄り添おうと必死だった。その優しさは見ていてあまりにつらかった。
「平野クン、きみ悔しないんか? 腹立たしいと思わへんのか? ……俺な、あいつの態度見とるだけではらわた煮えくり返る思いがするんや」
桝谷の強い語気を前に、平野はそれ以上言い返すことなく俯いた。
平野はきっと模索しているのだ。ひとつの言葉で決めつけてしまわず、どうにかできないかと悩んでいるのだ。それを痛いほどに感じながらも、本江はやはり何もできないままだった。
「彼、今日も帰ってきませんね」
凍りついたままの空気に原島の声がひとつ落ちる。
「この期に及んで門限破りか。ええご身分やなァ!」
桝谷はがんっと机の足を蹴った。向かいの机の野宮がびくりと身体を震わせる。
「違う、門限破りじゃない。彼、下の食堂でいつも遅くまで自習しているんだ」
どうしていいかわからなくなって、本江は咄嗟に口走っていた。決して播本のことを擁護するつもりはなかったが、この部屋に帰りづらい彼の心情も少しは汲んでやりたかった。そこに目を向けることが、言葉にすることが、力ない自分にできる唯一の打開策だと思った。
「少し様子を見てきます。……もうすぐ点呼の時間になるので」
「平野クン、もう放っておき。きみが気遣って身体壊すくらいならあんな奴、お望み通りさっさと辞めればええんや」
煙草吸ってくる。桝谷は苛々と立ち上がると、浴衣の上に乱暴に詰襟を羽織って部屋を出ていった。
平野は俯いたまま首をふった。違う、と小さく呟くのが聞こえた。
また最初に逆戻りだ。上手くいき始めていた日々が破綻していくのがありありと見えた。