廃用身 - 1/2

『廃用身』 監督:𠮷田光希 2026

 デイケア施設「異人坂クリニック」では、ある画期的なケアが行われているらしい。脳梗塞による麻痺などで回復の見込みのない手足を切断することで、患者本人や介護者の負担を減らしているというのだ。医療系雑誌の編集者である矢倉は興味を抱き、切断術、通称「Aケア」を受けた患者に取材を申し込む。
 異人坂クリニックの院長、漆原は30代半ばの若い医師だが、その語りは不思議な説得力を帯びていた。「もう年だから治りません」と言われた患者に対して、治す以外に何ができるのか。医療は「サービス」である――揺るぎない眼差しで自らの考案したケアを語る漆原に、矢倉はその考えを本にして広く世間に問うてみないかと提案する。
 Aケアを受けた患者達は、まるで蝶が羽化するがごとく変化した。ある者はまだ動く身体の部分に目を向けることで生きる希望を取り戻し、ある者は言語障害が改善した。「体が軽くなった」と笑う女性は性格までも穏やかになったといい、認知症が改善したかのようにみえる患者まで現れた。それらは漆原の想像をも超えていた。クリニックには明るい声が響く。歪に手足を失った患者達は心から幸せそうな笑みを浮かべ、皆で円になってボール遊びに興じている。それは奇跡の楽園か、それとも哀れな被害者達の成れの果てか。ある患者の起こした事件をきっかけに、答えのない問いは加速していく。

 

 初めて原作を読んだのは高校生の頃だった。当時海堂尊氏の作品にのめり込んでおり、医師の書いた小説を片っ端から読んでいた中で出会った一冊だった。
 最初に抱いた感想は今も覚えている。そしてそれは今も然程変わっていない。
 「廃用身」――麻痺などにより、回復見込みがない手足のこと。
 なんと美しい言葉だろう。この言葉は原作者久坂部羊氏の造語で、元になった医学用語は「廃用肢」だという。廃用症候群の類語だろうか。「廃用症候群」英語で disuse syndrome. disuse は直訳すると「使わないこと」。身体の一部が使われなくなったことに起因する心身の機能低下をさすが、そこに最初に「廃用」と和訳をあてたのはいつの時代の人なのだろうか。生きた人間の身体の一部、または寝たきりになった人自体をさす言葉に「廃」の字をあてた感性に、目の前の生身の人間を疾患の一例としか見ていない、科学者の冷たい眼差しを感じはしないだろうか。しかしそれはさておき、唯美しい言葉である。全ての陳列品に薄く埃の積もった博物館で、ひとり昆虫標本と向き合うときに背中を通り抜ける、白い静けさを思わせる言葉だ。そこに体温はない。すぱりと切り落とされた断面を覆う皮膚が、そこだけ生まれ直したかのようにつやつやとしている。
 残酷さと美しさは同時に存在し得る。美しさにしか目がいかなくなってしまったとき、そこで苦しんでいるのは、手足を失ったのは自分と同じ生きた人間であることを忘れてしまう。美しさは正しさとも言い換えられるかもしれない。正しいことをしているという意識に囚われた人は揺らがない。それが誰の目から見ても理不尽で異常なことであったなら非難の的となり終わるだけだろうが、善とも悪とも、正常とも異常とも言い切れないものであったならどうだろうか。もっともらしい説得力を持つ者が勝つのである。揺るぎない眼差しで持論を語り、一応他人の意見に耳を傾ける姿勢だけは見せる(あくまで姿勢を見せるだけであって実際に聞き入れる気はない)。この人は正しいと思わせるオーラを持っている。そんな人間が語る理想の楽園に、誰もが夢を抱き容易く吞まれていく。
 漆原が「Aケア」を推し進める様には揺らぎがない。それだけで、揺らいでいる自分の方がおかしいのではないかという気にさせられてしまう。「なんだかこわくて」と声を上げた看護師の言葉は尻すぼみになっていく。看護師の言う「こわい」と、漆原の言う「医師としての勘」は、どちらも根拠に乏しいという点では同じなのに、漆原の言葉が正しいという空気がひとりでに醸成されていく。誰に強制されたわけでもないのに誰も逆らえない場ができていく。最初は確かに存在したはずの違和感さえもいつしか有耶無耶になっていく。漆原は悪ではないが、彼のような危険なカリスマ性を持った者がトップに立ち、善悪で二分できないテーマを持ち出してきたときの危険な空気を、どうにかして変える術はないのだろうかと考えてしまう。
 最初の患者のカルテには「有害無益な肢」と記述される。有害無益であるから切る。ここにコロナ禍の「不要不急」論を想起した。有害無益であれば切り捨ててもよいのだろうか。そもそも誰が、どのような基準でもって有害無益と判断するのだろうか。無益であると言われ続けることで、本心に反してそう思い込まされてしまうことはないだろうか。
 無論そのようなことを言い出したら何ひとつ先に進められなくなってしまうので、どこかで何らかの判断あるいは区切りをつけなくてはならないわけだが、ではどうすれば議論は尽くされたと言えるのだろうか。一方的に有害無益と断ずることへの薄ら寒さも覚えるが、同時に必要であると言いきることのできない弱さも己の中に存在するとき、人は第三者の意見を求める。言ってほしい答えを無意識に求める。そして漆原のような人間は迷いを的確に汲み取って、最も望んだ言葉を優しく与えてくるのだ。
 切断手術の描写は泉鏡花の『外科室』を思わせる描き方にも見える。昆虫標本を作る様子にも似ている。切っているのが生身の肉体であると感じさせないのだ。血液さえもただそこに赤い液体として存在しているだけで、グロテスクさはほとんど感じない。後に他の患者の手術シーンで漆原の見る幻覚(と言っていいのだろうか? あれは漆原にとってはごく普通の見え方であったかもしれない)に、生きた血肉を扱っている自覚の無さがより感覚的に描写されている。
 最初の患者の手術が成功し、またそれに感化された他の患者が切断術を自ら希望しその予後も良好であったことから、漆原は切断術を「Aケア」と名付け推し進めていく決断をする。Aは Amputation から、ケアは治療の「キュア」ではなく介護「ケア」の一環として行うという意味からつけられた名称だ。切断という本能的に忌避感を起こさせる用語を排除し、治療ではなくケア、サービスであると打ち出すこの言葉に滲むグロテスクさに、果たしてどれだけの人が自覚的でいられるだろうか。耳馴染みの良い言葉は思考を麻痺させる。痛みを忘れていくのだ。エコーチェンバーとは想像力を集団的に喪失した状態である。そのフィルターの中にいる限り幸福でいられる。誰だって痛い思いはしたくないから、本能的に目を背ける。なかったことにする。そうして切り捨てられていくのは、いつだって弱者の声である。
 「Aケア」を善とも悪とも言えないし、漆原のことも正しい医者とは言えないが悪魔だとも、ましてや狂っているとも思えない。介護に、老年期医療に正解はない。他人事のままでいられたらいいのだが、生き続けた先でいつか必ず当事者になる。老いからは逃れられない。そこにこの作品の持つ後味の悪さがある。
 原作の小説は2003年に刊行された。当時は非現実的にも思えた介護の問題は、20年後の今現実のものとなっている。逃れられない当事者意識を誰もが抱えた2026年だからこそ、映画化される価値のある作品だと言えるだろう。さらに20年後、Aケアが受け入れられる世界に身を置くのか、それとも議論を尽くして拒絶するのか。その分岐点は今この瞬間なのかもしれない。

 鑑賞後にパンフレットを読み、その構成に震えた。ありそうでなかったパンフレットだと思う。鑑賞前に読んではいけない。迷ったら是非とも購入を……。

 

※この先は核心部分のネタバレを含みます。まっさらな状態で観る方がいい作品だと思うので、鑑賞後に閲覧することを勧めます。原作とは異なる描写も多いので、原作読了済みの方もご注意を。