音をたてないようにそっとドアノブをひねる。僅かに覗いた部屋の先、見えたのは福々と花をたたえた桜の枝と、その枝の見える特等席に立つ、猫背気味の影だった。
簡素な窓枠に乗せられた腕は成人男性のものとはにわかに信じがたいほどに痩せて細く、実際の年齢よりも枯れて見えた。しかしぐっと体重をかけても折れることはなさそうな、不思議な安心感を抱かせる。柳に雪折れなし、そんな言葉を思わせた。窓枠の向こうに差し出された腕は春風に吹かれるがまま日光に晒されていて、左手の先には火を点けたばかりと思しき煙草が蜻蛉のように止っていた。
ふ、と息を吐く音が聞こえる。桜の白よりやや深い煙が窓の向こうに吹き切れて、そうして彼は骨に響く嫌な咳をした。
「それ、やめておいた方がいいですよ」
びく、と硬い背が跳ねる。反射的に火を消そうとした彼は、僕の姿を認めるなり緊張を解いた。
「なんだ、お前か。看護婦かと思った」
またばれたら次こそここから放り出されかねん。そう呟きながらも、彼は悪びれもせず煙を口にした。灰の崩れかかった先が僅かに赤く灯り、重さに耐えきれなくなってはらはらとこぼれた。
「どうして吸うんですか。苦しくなるだけなのに」
「お前にもいつかわかるよ。いや、一生わからないかな。わからないならそのままでいい」
煙とともに彼はまた咳をした。療養所では聞き慣れた、肺が壊れた人間特有の咳だ。暮れ方や夜半だけでなく、朝も昼もこの咳をし始めた患者は来年の同じ季節を迎えられない。それだのに、彼は残酷に告知された年限からもう二年も生き延びているらしかった。
「今日も描きにきたんだろう。存分に使えよ」
彼は窓枠で煙草の火を消すと、どさりと音をたてて寝台に座った。開け放たれた窓とその向こうの桜は、さあどうぞ、と言わんばかりに待っている。吸い寄せられるように僕は窓辺に立つと、抱えてきた写生帖を広げた。
先月、久々の外泊から戻ったばかりでうっかり部屋を間違えたのをきっかけに、隣の部屋からは見事な桜が拝めると知った。
隣室は独り部屋で、無口な三十がらみの男がもう何年も療養している。それだけは把握していたのだが、彼はほとんど部屋から出てこないので会話をするどころか、名前さえ知る機会がなかった。
眠たげな曇り空の昼下り、間違えて踏み込んだ部屋からは嗅いだことのないにおいがした。それが煙草の残り香だと、あとになって知った。
部屋の主は早瀬という名の独り身の男で、もう五年もここにいるのだという。他の患者が恐々と噂する通りの得体の知れない存在ではなく、笑うと右目を細める癖のある、視力のせいで目つきが悪いだけの気さくな男だった。
僕が絵を描く人間と聞いて、早瀬はこの部屋から一望できる自慢の桜の木を紹介してくれた。窓のすぐ向こう、身を乗り出せば指先が届く距離に、毎年こぼれんばかりの見事な花を咲かせるのだという。咲いたら写生に来てもいいかと僕は尋ねた。早瀬はひとつ頷いて、自分の家だと思っていつでも来たらいいと言った。
蕾がまだ固い頃から描き溜めて、そろそろ二十枚に届こうとしている。
「相変わらず上手いもんだな。まとめて画商に売ればすぐにでも豪邸が建てられる」
斜め後ろから覗き込んだ早瀬は、僕の絵を大袈裟に褒めた。彼が大袈裟なのはいつものことで、巴里でも通用するだとか、将来の褒章間違いなしだとか、そんなことばかり適当に言う。お世辞なのは百も承知だったが、彼の物言いに嫌味がないので、笑ってすんなり受け入れてしまうのだった。
「鉛筆だけで描かれてるのに色を感じるってのはどういうからくりなんだ?」
まるで花の薄紅までもがここに縫い止められたみたいだ、と早瀬は呟いて、窓の外の本物の花と紙の上の仮初とを交互に見比べた。
「もし色を感じるのなら、それは僕の腕前のせいじゃなく、早瀬さんの心の中に色があるからですよ」
鉛筆だけで描かれた絵のいいところは、世界を定義しすぎないところだ。全てを完璧には描写できないからこそ、余白に観る人の想像力を描き加えられる。
……などと偉そうに考えてはみたが、なんのことはない、ここでは画材を広げられないから仕方なく鉛筆一本で気慰めにやっているだけだった。体調のいい頃は看護婦に怒られながらも日がな一日外で好きに描いていたが、最近は画材を担いで階段を下るだけでも息が切れてへたりこむ始末で、絵筆も絵具も埃を被ったまま寝台の下に押し込まれている。部屋で広げるとペインティングオイルのにおいが残って顰蹙を買うし、医者は胸に悪いからやめなさいと言うばかりで話にならなかった。石油を飲む療法があるくらいだから同じ石油から精製されたペトロールを吸い込むのはむしろ体に良いのでは、なんてつまらない冗談を言ったのをきっかけに、医者の僕に対する信用は地に落ちた。
「心の中の色か。さすが、画学生は言うことが違う」
「画学生……だった、ですよ。学生だったと言っていいのかも怪しいくらいだ、なんせ大した技術も得ぬうちにここに来ることになってしまったので」
「そう僻むなよ。ここじゃ誰でも、過去形でしかものを語れないのが当たり前なんだから」
現在進行形でものを語れるのは……ほら、あそこにいるあいつくらいだろう。そう言って早瀬は窓の外を指さした。
桜の木の向こう、清浄に整えられた芝生のベンチに、涼やかな着物姿の男が腰掛けている。男の周りには若い看護婦達がやたら近い距離で寄り添っていて、時折華やいだ笑い声が二階の窓辺にまで聞こえてきていた。
「小指の先くらいの影が写ったくらいで大仰に療養に出された御曹司。本当は肺病みだってのも嘘で、嫁探しに来たのかもな」
「羨ましいですか」
「まさか。生まれ変わったってああはなりたくないね」
ああ厭だ厭だ、と輝かしいものを遠ざけるように早瀬は頭をふった。
「俺の弟も絵が上手かった」
早瀬はぽつりと呟いた。記憶の欠片がふっとこぼれてしまったような言い方だった。
「戦地にまでこっそり画版を持って行ってさ。盾くらいにはなったかな」
その弟には二度と会えないのだと、彼の眇めた目は語っていた。その口ぶりからして、きっと戦争で喪ったのだろう。それ以上訊くのは憚られた。