Latria

 こっちにおいで。呼びかけると、鞄の中身を落ち着きなく確かめていた手がぴたりと止まった。
 おいで、髪を整えてあげるから。もう一度、今度は手招きも付け加えると、なおも迷う素振りを見せていた深い鳶色の瞳がようやく小さな頷きを返した。所作や目線の端々にまで細心の注意を払うように妙にかしこまって、まるでひとつでも行動を間違えたら、その途端に全てが崩れてしまうと信じ込まされているみたいに緊張して。朝食を終えるまではいつも通りの笑顔を見せていたというのに――いや、それさえも精一杯の虚勢だったのだろう。
 家を出ることが決まった日から、弟はずっと張り詰めていた。残り少ない日常に罅を入れぬよう、決して砕かぬようにと無理に笑顔を作り、努めて明るく振る舞い、慣れない料理を作ってくれたりもした。生まれ育った家で過ごす最後の数週間くらい、身も心もゆっくりと過ごさせてやりたいのに――そうさせてやれないのは私の弱い身体ゆえだった。まだ年若い弟の柔らかな心に、ひとり家に残していく兄への心配ばかりを押し付けてしまうのは何より心苦しく惨めだった。
 鏡台の前に座った弟は、白い項をこちらに向けたままじっと押し黙っている。幼い頃は可愛らしい眼差しを惜しげもなく向けてくれたものだったが、いつからか少し不機嫌な気配を漂わせつつも気恥ずかしげに、ちらりと一瞬目を合わせたきり俯くようになった。
 細く柔らかい髪にそっと櫛を通す。育ち盛りの弟の背は若竹のように伸びて、今夏には私を追い越しそうな勢いだが、この髪だけはいつまでも無垢な少女のように繊細なままだった。重さのないふわふわとした髪はすぐに跳ねてしまうので、耳の後ろで撫でつけるには自分でやるよりも誰かにやってもらう方が遥かに上手くいく。記憶さえ朧になった遠い昔、私も母によくこうして整えてもらったものだった。
「忘れ物はない?」
 本当はもっと話したいことが、言葉にして伝えておきたい大切なことがたくさんあるはずなのに、口をついて出るのは使い古した心配ばかりだ。そんなに頼りないかと諦め半分のため息にごめんねと笑うと、ますます重いため息が返ってきた。
「ごめん、心配性だから。後で気づいて困るよりも、今多少の口うるささを飲み込む方がいいと思って許してほしいな」
「兄さんのそれは心配性じゃなくて、過保護って言うんじゃない」
「そうかもね。父さんと母さんの分まで一心に注いできたんだから、そりゃあ過保護にも、な、る……ッ、けほ、っけほェほッ……
 はっと心配をはらんだ気配を鏡越しに感じる。見れば、鋭い視線がこちらを真っ直ぐに射抜いていた。
「咳。最近、多いんじゃない」
 平気、少し噎せただけだから。眼差しから逃れられないまま、燻る胸元をそっとおさえる。話しすぎたのか、脈が少し速い。何度かゆっくりと息を吸って吐いて、言葉よりも饒舌な咳の衝動を宥めてやり過ごす。
「手のかかるのがいなくなるから、大丈夫だとは思うけど。くれぐれも無理はしないで」
「手のかかるだなんて、思ったことないよ。……今日までたくさん我慢させて、ごめんなさい」
「違う、そういう意味で言ったんじゃない! そういうところ、兄さんの悪い癖だ。……本当に心配してるんだよ。僕がいないからって無理して心臓に負担のかかることは絶対にしないで、動けなくなる前にお隣のマチさんに声かけて、お医者様の往診もちゃんと受けて、」
 まったく、これではどちらが送り出す方か、兄なのかわからない。
 鏡に写る弟を見る。亡き両親の面影をちょうど半分ずつ受け継いだ愛しい眼差しが、泣き笑いに歪んでいた。
――ああ。私は今日までこの子に生かされてきたのだ。

 玄関を開けると、季節外れの雪が舞っていた。灰色の空からはらりひらりと、まだ遠い桜の花弁を思わせる淡雪が零れ落ちては見慣れた風景の色を、生活の音を吸い込んでいく。
「静かだね」
 冷たい空気を大きく吸い込んで、弟は白い息を吐いた。鳥の鳴き声ひとつない中で、寒い吐息が微かに霞んだ音をたてた。
「入学式、行けなくてごめんなさい」
 たったひとりの肉親なのに。もう何度伝えたかわからない謝罪を口にすると、弟は雪に薄く覆われた飛び石を蹴って振り返る。
「急行列車を使っても一週間近くかかるんだ、当たり前だろ」
 それにこの歳にもなってわざわざ来てもらうなんて、恥ずかしいから。そうは言うが、本当は心細いのを知っていた。眠れぬ夜に母の着物の切れ端で作った御守りをいつまでも握りしめていたことも、戦地から届いた父の最後の手紙を繰り返し読んで涙を堪えていたことも知っていた。立派に強がってみたところで、弟はまだ十八歳なのだ。いまだ終戦の傷跡燻る街で、ひとり暮らしていく不安は如何ほどか。
 そばに、せめて最初の数週間だけでもそばに居てあげられたなら、どんなによかっただろう。おかえりといってらっしゃいを伝えることしかできなくても、小さな支えくらいにはなれただろうに。
 しかし生まれついての弱い身体はそれさえも許してはくれない。片道僅か半刻足らず、隣町の市へ買い物に出るだけでも日を選ばなくてはならない欠陥を抱えた身体では、とても上京などできやしない。無理についていったところで、倒れて迷惑をかけるだけだ。
「兄さん」
 控えめな、それでも凛と通る声に呼ばれて、傾きかけていた心ごと顔を上げる。色を失くした雪空の下で、弟の冷えた頬の赤みだけがやけに鮮やかに焼きついた。
「僕が手紙を出すまで、決して……決して、兄さんからは出さないでください」
 下手な悪戯を咎められるのを待っているかのような声は、おもちゃを失くして大泣きしていた幼き頃と何ひとつ変わらなかった。片手で易々と包み込めてしまう小さな小さな手のひらをとって、何があっても守ってあげると誓ったあの日から、何ひとつ。
「どうして?」
……揺らいで、しまいそうだから」
 すぐにでも寝台列車に飛び乗って、兄さんに会いたくなってしまいそうだから。白い吐息に氷雨が交じる。濡れるといけない、と弟は私の体を軒下に押し込んだ。今や片手で易々と捕まえられてしまう痩せた手を持つのは私の方だった。
「必ず、必ず便りを書きます。だから、待っていてください」
 にわか雨を払って、弟は晴れやかに笑ってみせた。虚勢の滲む、それでも頼もしい笑みだった。

 いってらっしゃい。
――そして、さようなら。
 若い背中が白い風の彼方に見えなくなるまで、そこに立っていた。やがて訪れた無音の雪景色は、どこまでも寂しく虚ろだった。
 かさついた指先が袂に隠した紙片に触れる。ひと月ほど前、弟の合格通知とほぼ時を同じくして届いたそれは、高原療養所サナトリウムにようやく空きが出たという報せだった。弟が両親の肖像に合格通知を捧ぐのを見ながら、私は秘密をひとり胸にしまい込んだ。
 実を言えば、内心ほっとしていた。悟られないよう振る舞い続けるのも限界だったのだ。血痰までは心臓からくるものだとなんとか誤魔化せたが、それ以上は隠しきれない。やがて血を喀くようになることは、誰よりも自分が一番よくわかっていた。――それが身近な人間の命へも牙を剥く、うつり病であることも。
 生まれついての心臓の欠陥だけでなく、肺をも病んだと知ったなら、弟はこの家を離れられなくなるだろう。戦火だけを逃れただけの何もないこの土地で、ふたり静かに終わりゆくことを選んでしまうだろう。
 弟が華々しく入学式の桜風に吹かれている頃には、もうこの家には誰もいない。卒業時までの学費と月々の仕送りは全て、頼れる者に託してある。何の不安もないはずだった。
 弟の手紙はここに届けられるまま、読む人を見失い降り積もっていく。彼が全ての真実に辿り着く頃には、きっと私はもう――
 弟の髪の手触りを思い出す。この記憶ひとつで、私はあとどれだけ生きられるだろう。