落花流水

「どう、ですか……?」
「あまり変わりはありませんね。体温も脈拍も落ち着いているようですし」
 変わりがない、という言葉が快復を示すのではなく、これ以上悪くなってはいないという意味になったのはいつからだろうか。彼の身体に最早快復は望めず、変化といえば悪くなることしか指さない。体温も脈拍も落ち着いているといえば聞こえはいいが、健常者と比べて異常な数値内で落ち着きを見せているということにすぎない。そのことを知りながら、こうして毎回不毛なやりとりを繰り返している。
「少し背中を診ますよ。体、起こしますね」
 答えの代わりに彼は掛けていた布団をめくる。伸ばされた細い腕を取り、腰骨の目立つ体を引き寄せると、薬っぽい彼の匂いを肩のあたりにふわりと感じた。
「ッけほっ! クふ、こほっ……ぅ、けほッ……
「ゆっくり呼吸してください。落ち着くまで、ゆっくり」
 布団の上に身を起こすだけで、弱りきった呼吸器は抗議の声をあげて彼に牙を剥く。抱きかかえたまま背に手を回し宥めるように上下に擦ると、彼は何度か重く咳き込みながら小さく謝罪を口にした。
「ゼぅッごほ、きヒュ――っ、ごめ、なさ……ぜーッ、ぜぅぅーッ……
「すぐ終わりますから。少しだけ我慢してくださいね」
 肩に縋り付く痩身を支えながら聴診器を背にあてる。ざらざらと砂を引っ掻くような喘鳴の合間に、か細い笛のような呼吸音が痛々しく聞こえてくる。
「少し、深めに息を吸えますか」
「っは、はーー……ヒュ、ひゅ、う……ッぜぅ゛っっぜぅぅ゛ッ、きヒューっ、ヒュウウッ――
「すみません、無理を言いましたね。しばらく背を起こしたままにしておきましょうか」
 ぜごりと重い喘鳴が鎌首をもたげ、細い呼吸が押しつぶされるのを聴診器越しに聞いていた。これ以上は徒らに体力を奪うだけだ。聴診器を外して背を擦ると、病んだ呼吸が一層近づいたように感じた。

「ごめ……また、だめだった、ね」
「いいさ。謝るのは俺の方だ……無理をさせて、すまなかった」
 医者と患者の関係がただの旧い友人同士に戻る時、自然と言葉も昔に戻る。ここからは医者と患者ではなく友人として過ごす時間だと、どちらが先に言い出すでもなく境界が溶ける。
「学会、どうだった……? 東京には、戻れそう?」
「さあ、どうだろうな……俺はお偉いさん方に随分と嫌われているらしいから。ここでこうしてのんびり医者をしている方が、俺には向いているのかもしれんな」
 本当はもう東京に戻るつもりなどない。肺を病んで余命幾許もない幼馴染の側にいるために故郷に戻ってきたのだと告げたら、彼はどんな顔をするだろう。
「もっと一緒に、研究していたかったなあ……やっと隣に並べると、思ったのにな」
 医者と患者の関係になどなりたくはなかった。同じ未来を目指す研究者として在り続けたかった。尽きぬ思いがぽつりぽつりと痩せた胸を通して吐き出されていく。
「医者である前に、俺逹は友人だろう。ずっと隣にいるだろう」
「そ……だね。ごめん、ね」
 医者として彼を看取りにきたのか、友人としての思いだったのか。答えを出せる日は、きっとそう遠くないところにあるのだろう。