欠けゆくもの

 ちらり、と可愛らしい小さな頭が覗いている。大きなまんまるの瞳がこちらを気遣わしげに窺いながら、声をかけられるのを待っていた。
「おいで」
 ぱっと表情を輝かせて、ノートを小脇に抱えた少年が駆け寄ってくる。
「千歳兄ちゃん、宿題ここでやってもいい?」
「いいよ。何の宿題?」
「理科! 月が空を移動していくのを観察して絵を描くの」
「なるほど。確かに、それなら僕の部屋が一番向いてるね」
 子ども達の部屋も自分の部屋も同じ南向きの窓があるが、子ども達の部屋は隣のマンションの影がちょうど邪魔をしてしまう位置にある。
「三十分に一度、同じ場所から見て描くんだって。……よし、一回目おわり!」
 四角い窓枠の絵の左下に丸をひとつ描いて、少年は満足げにひとつ頷いた。
「そんなに簡単でいいの?」
「満月の日に描けば丸をひとつずつ描いていくだけで終わるって、クラスの友達が教えてくれたから」
 まったく、ずる賢いやらなんやら。苦笑しながらも、そういえば自分も幼い頃同じように年上の兄弟たちに悪知恵を吹き込まれたりもしたなと、千歳は懐かしく思い出していた。
 いつだってここが僕の家だ。誰とも血が繋がっていなくても、みんな僕の家族で兄弟だ。人と違うことはわかっていたけれど、それを不幸に思ったことはない。
 僕の家族はみんな、陽だまりのように温かい。たとえ僕の身体がどれだけ粗悪品で、とても育てられないと実の両親に捨てられたものであったとしても。

「兄ちゃん、大丈夫……? ともちゃん呼んでくる?」
ッ、平気……ごめん、ちょっと苦しくなっただけ、だから」
 ぐっと胸の奥をつかまれるような痛みに一瞬息が詰まって、揺れる吐息がひとつ溢れる。は、は、と浅い呼吸をしていると不安げな声が側で聞こえて、ふらふらとする視界のまま顔を上げた。
「ごめん……水、持ってきてくれる……?」
 わかった、と大きな返事がひとつ聞こえて、ぱたぱたと軽い足音が遠ざかる。
 制御を離れた呼吸が煩い。痛みが強く、抑えようと思っても呼気に乗せて声が漏れてしまう。冷や汗が止めどなく溢れてきて視界が歪む。最近よくある不整脈の症状だが、自身が慣れていると感じる以上に周囲には恐怖や不安を与える姿に映ると知っていた。
「ッう゛……っは、はぃ、ッく、う……っは、はぁっ、は……
 カーディガンのポケットからピルケースを取り出す。“三回使っても治まらなければ救急車”――ケースの裏に貼られたメモが目に入る。今日はもう二回目なんだよなあ。まるで他人事のように意識しながら蓋を開けて、小さな命綱をひとつ手にとった。
 本当は水なんていらない。薬を服用するところを見られたくないだけだ。小さな兄弟たちに病の影など見せつけたくはない。発作が起きるのは仕方のないことだけれど、兄ちゃんはいつも苦しそうだった、そんな風には思われたくなかった。
 いつまでここにいられるだろう。いつまで皆の家族でいられるだろう。いつまで家族でいても許されるだろう。
 まだ兄でいたいと思うことは、いけないことだろうか。