孤独共同体 - 1/3

 新しく“お気に入り”になった新入りは、まさに主人の好みそうな容貌と気質を併せ持つ男だった。
 繊細で柔らかそうな黒髪は今は仕事の支障にならないようにと本人が短めに整えているようだが、直ぐに主人がもう少し伸ばせと言うだろう。軽く俯いた拍子に長めの横髪が細いリムの眼鏡の縁にかかるのを繊細な手つきで払う、その様子を満足げに眺める主人の姿がありありと浮かぶようだった。
 年齢は今年で十九、屋敷の中でも若い方だったが、此処で働くようになるまでは相当悪辣な環境下にいたと聞いている。年に似合わぬ、ともすれば不気味にすら思える落ち着きをはらんだ鳶色の瞳の奥には、隠しきれぬ諦念のようなものが見え隠れするようだった。
 待遇もよく主人の社会的地位もよい、使用人として働くには文句のない環境。主人のお気に入りに選ばれさえしなければ、ここは恵まれ過ぎた職場であろう。
 この屋敷は主人ひとりきりの居城であったが、バトラーからフットマン、キッチンメイド、庭師に至るまで数多くの使用人が雇われていた。雇用希望者はバトラーによってある程度選別され、最終的には下級職であっても主人の御眼鏡に適った見目と気質のある者だけが正式に選ばれる。使用人のほとんどはこのようにして雇われていたが、中には主人がある日どこからともなく連れてきた身元も知れない者も含まれていた。
 主人が“教育”を施すのは、そのようにして主人自らが選別し連れてきたお気に入りに対してだけだった。
 
 真新しいテーブルクロスを広げた際に舞い上がった埃を吸い、こほんと咽せるような咳をした青年を、手元の本から視線を外した主人が片目だけでつい、と見遣る。
「主人の前で咳をするなど、無礼極まる態度だな」
 淡々とそう宣う主人の声に、咎めるような色はない。それでも青年はぴたりと動きを止めた。
「申し訳ありません……失礼、致しました」
「別に謝罪を求めたわけではない。むしろ今のは私が悪いのだ……新人のお前にきちんと教育を施していない私が、な……?」
 主人は愉しそうに笑うと、指先に挟んでいた金の栞を愛用のステッキに持ち替え、ゆらりと立ち上がった。自分が何をされるかもうわかっているのだろう青年の瞳には怯えが浮かんでいる。
 主人のステッキを持たない左手の指先がつ、と青年の顎に触れた。頭半分程高いところから至近距離で向けられる切れ長の仄青い銀灰色の瞳に、青年はたじろぎ怯えを困惑の表情に変える。
「ますは身だしなみから教え直さねば、な」
 顎を伝い首元をなぞる手が青年の胸元のリボンタイへと伸び、大して緩んでもいなかったそれをくるくると指に絡ませしばらく弄ぶと、細い首をじわりと締め上げた。それだけで青年の細い肩はぴくりと跳ね上がり、はく、と苦しげな呼吸を洩らす。
「おや、苦しいか? このくらいの方がきちんとしていて、好ましいと思うのだが」
 主人はくつりと嗤う。青年は掠れた声ではい、と答えた。
 主人がどこからか引き抜いてくる“お気に入り”達は皆虚弱で、何かしらの優遇措置でもなければ碌な働き手にもなれぬような者ばかりだった。美しい容姿を利用され酷い扱いを受けていた者も少なくない。そんな彼等を是非にと屋敷に呼び寄せ、傍で仕えさせるのが主人の何よりの愉しみだった。
 ただ苛烈に働かせるだけでは彼等はすぐに使い物にならなくなる上に、主人の社会的評判も落ちる。いかに長く使うか、いかに長く彼等の心をものにするか、心から尽くしたいと思わせるかということに、主人は何よりも砕心していた。
 実際、主人はそれが大層上手かった。選ぶのは大抵これまで惨い仕打ちを受けてきた者ばかり。親に捨てられた、弱い身体故に邪険に扱われた、陰間として身売りをさせられた……心から自分を愛する者などいないのだと絶望しきった彼等に主人は優しく声をかけ、お前が必要だ、他の者では駄目なのだと繰り返し言い聞かせた。きつくあたるのは全てお前の事を想うが故、痛みを与える事にこんなにも心痛ませているのだと、疑う余地もなく彼等が信じきるようになるまで何度も何度も。
 それは口から出任せの誘い文句ではなく、無意識に主人の本心も含まれていた。両親は莫大な遺産を残して他界し他の血族との関わりも薄く、無論配偶者も跡継ぎもいない主人は孤独な人間だった。傍らに寄り添い自分を必要としてくれる誰かを欲しているというのは、主人の噓偽りのない切なる願いでもあったのだ。
 そうして集められた者達は、現在この屋敷に三人いた。皆下級のフットマンから始まり、今やそれぞれの特技を活かしてこの屋敷の使用人を纏め上げる立場にある。最も主人に尽くし、また主人に必要とされるまでになった一人はバトラーの地位まで登りつめ、主人の為のみならず屋敷の為にもなくてはならない存在となっていた。
 新入りの青年は、主人が苦心して引き抜いてきた四人目の“お気に入り”となる。久々に手ずから教育を施せることに、主人は喜びを抑えきれない様子だった。