彼誰時のまだ緩まぬ寒さの中に、乾いた咳がひとつ響く。
夕方から降り出した桜流しの雨のもたらした寒さは、このところ小康を保っていた青年の病状をまたも悪化させた。気温が下がるにつれ熱は上がり、横になる事すら出来ず胸の奥を裂くような咳に溺れ、家人が慌てて呼んだ医者が随分と逡巡した挙げ句に投与した強めの薬が功を奏して、夜更けにようやく気絶するような眠りに落ちた。
物音ひとつない静まり返った家に、またひとつ咳が落ちる。けふ、けほと吐息のような咳をしつつ布団の上に身を起こした青年は、その細い背をふるりと震わせた。寝汗のせいもあるが、まだ常より高い熱をもつ身体に、今朝方の気温は低過ぎる。
枕元に畳んであった羽織を手に取ると、青年は立ち上がろうと静かに片膝をついた。
「……っ、は」
たったそれだけの、衣擦れさえ聞こえないような些細な動作で青年は息を乱していた。
寸の間呼吸を詰め、じっと堪えるように眉根を寄せた後にけふりと咳とも呼気ともつかぬ息継ぎをしつつ、青年は床の間の脇の書院窓へとゆっくり歩いていった。骨張った細い指で、音を立てぬようそっと窓を開ける。
「……ああ」
庭の全てが、白に染まっていた。
いつの間にやら雨は雪に変わっていたらしい。この時期には滅多にない程降り続いた雪はようやく春めき始めた草花の緑に等しく降り注いで、一晩でその様相をがらりと変えていた。
冬の枯れた草木に降り積もる雪は、世界の色を奪って塗りつぶす白をしている。しかし今回の雪はまるで、新芽の青さをより瑞々しく、鮮やかに引き立たせる為の白のようだった。
あちらこちらに向けられていた青年の目が、やがて一所に留まる。
青年の目を奪ったのは、庭の一等奥にある桜の木だった。青年が生まれる前から変わらぬ姿でそこにある桜の古木は、降り積もった雪の重みで枝垂桜のように枝をしならせている。折れそうなほどに撓んだその先には、花盛りを少し過ぎて中心から紅に染まりつつある花がまだしっかりと残っていた。
触れてみたいーーふと青年はそう思った。
障子を開けると、縁側に続く硝子の引き戸は寒さを締め出すためにぴたりと閉じられていた。一番端の戸の前には、もっと天候が悪くなるようなら閉めるつもりだったのだろう雨戸が纏めて引っぱり出されている。
濡れぬよう沓脱石と縁の下の間に避難させられていた草履を素足のまま履いて、青年は白の中へと踏み出した。真冬の粉雪とは違う水分を多く含んだ雪はすぐに青年の足に纏わり付いて、指先を赤くかじかませる。一足進む度に吐き出す熱っぽい息が、青年の周りで雪煙のように舞っていた。
何度も息を整えつつ、青年はようやく桜の元へと辿り着いた。青年の目の前、少し手を伸ばせば届くところまで、枝が撓垂れてきていた。
雪の重みに耐えかねた花が今にも散ってしまいそうで、青年は思わず手を伸ばした。
指先が僅かに花弁の先に触れる。上に薄く積もった雪が体温でじわりと溶けて爪の先に小さな水滴を零した。
ふ、と青年は緩い笑みを浮かべて、もう一度同じように触れようと手を伸ばした。
「っけほ、けっほけほゲホッ、げほげほげホゲホゲホッうゔっ、……っあ、」
指先が触れるか触れないかのうちに息も継げないような咳の発作が細い身体を甚振って、たまらず青年は胸を押さえる。
「ゴホゴホゴホッヒーーーッ、、
……っッッッゼヒぅッッあ、あっくゥ、ぅ ぁ……っゼぁ ッ あ、 ッくゥぅ、」
急な酸欠状態に足下が揺らいで支えも無く雪の上に倒れ込んだ青年は、咳すら出来ぬまま雪の地面に爪を立て半身をしとどに濡らして、ただ胸の奥からこみ上げるものの熱さにがくがくと身体を震わせた。大地の冷たさと横臥した体勢のせいで、完全に呼吸の制御を失っていた。
「ッかハ、うぐゥ……っああァっッっ つ ぅ…ぅくゲホゲホゴホっッか ハッ かハ 」
震える背がぐっと引き攣れたように動きを止めた瞬間、鮮やかな赤が口から溢れ出した。勢いよく散ったそれは喉元に衿に、白い大地に真っ赤な花弁を咲かせた。
大地の雪と己の喀いた血の赤が交ざり合い作り出す奇妙な模様を、青年は半ば飛ばしかけた意識で見ていた。彼の目にその景色は、一面の銀世界に突如舞い降りた桜吹雪のように見えていた。
「ああ、きれい、だ」
青年は幸せそうに微笑って目を閉じた。
雪と見紛うほど白いむき出しの腕には、散ったばかりの真新しい薄桃色の花弁が張り付いていた。