冴える赤

 夢うつつの世界でじりじりと焼かれているような、汗ばんだ不快感に浅い眠りから引きずり起こされた青年は意識の覚醒も待たぬままに痙攣するように咳いた。
「っ……ケホッ、けほけほげほッぅ、か……けほっげほッ、……っあ、あ」
 眠った状態から突然に息をつく間すら与えられぬ咳に襲われたせいで、青年は半身を起こせば呼吸苦から幾分解放されるということすら忘れて酸素を求め喘いだ。彼が酸素を取り込もうと薄い唇を開き、食むようにはく、はくと震わせると、晒される透ける程白い喉は呼応して生々しく筋を浮かび上がらせる。髪間から頬に流れ落ちた冷たい汗が、彼が身を捩る度に顎を伝い濡らしていった。
 指先がシーツを引っ掛けて、水を掻いたような跡を作る。縺れたシーツを引きずったままに、青年は胸元にがりがりと爪を立てた。布に阻まれたおかげで跡を残すことはなかったが、既にその胸には何度も同じようにしてつけられた引っ掻き傷が赤く刻まれていた。

 酸欠の、身体中を押さえつけ圧し潰さんとする圧力が強まるにつれ青年の意識は確りと覚醒していった。胸の奥深くを刺す目の醒めるような痛みが走る度、白飛びしそうな世界に突如強烈過ぎる色彩が乱流する。目を固く閉じても色の奔流は瞼の裏で踊り狂っていた。
 血色を失った唇が叫ぶように戦慄くも、部屋に響くのはさらさらという水音のような微かな衣擦れと、喉の奥から発せられる微かに声の残滓を残した喘鳴のみだった。声とも音とも形容し難いそれは人間が吐き出すにはあまりに異様で、壊れかけの機械のノイズのようなざらざらとした質感を伴っている。
 二人分の人間の生活感ある部屋の中で声もなくひとり悶え苦しむ青年だけが、切り取られたサイレント映画の一場面のように現実離れしていた。南向きに大きく作られた窓の天辺から差し込んだ光がベッドの足下に作り出した陽だまりに、青年が蹴落としたシーツが皺になって折り崩れて強い陰影を作り出していた。
「ごほ……ぜッッ………っう、ッくげほ、えほッぅえ、 ッはっ……… 、あ、はっ……つ、ぁ……
 強い咳の衝動が襲う度に嘔吐くように身を強張らせるも、強く咳き込む程の体力は残されていなかった。押し寄せる波のごとき衝動に晒される度に見えない縄できつく締め付けられているかのように気管が狭窄し、酸欠のために脳貧血を起こした青年は気を飛ばしてぐたりと全身を弛緩させる。もっともそれは数秒のことで、力を失い投げ出された腕がベッドからずるりと落ち、手の甲が床を擦った僅かな衝撃で彼の意識は再び引き上げられた。
 吐息にも近い、肺の奥底の澱を無益に刺激するだけの咳をし、もがき、数瞬の失神と覚醒を繰り返した青年は力なくベッドの脇に凭れるように崩れ落ちた。図らずも座る姿勢をとれたおかげでいくらか胸のつかえから解放され、胸を何度か上下に擦っては引き付けを起こしたような痙攣交じりの呼吸を宥めるように細く息を吐いた。
……っ、か……げほげほッッア、ぁ、くゥつっ、いッ…… う、かはッ、……っは、はぁっ、……っうう、 っア」
 突然の肺に焼けた火箸を差し入れられたかのような激痛と突如湧き上がる何かに、青年は身を折って激しく咳き込んだ。
 身体は彼の思考の自由を奪いひたすらに胸の澱みを喀き出さんとする反射を繰り返したが、体力の尽きかけた体ではそれすら満足に叶わず、ただ見開いた両の瞳から生理的な涙をぼろぼろと零させるだけだった。先までの静寂に支配された責め苦とは打って変わった、胸壁をざりざりと音を立てて削り抉る絡んだ咳に青年は引き絞られた喘ぎ交じりの悲鳴を上げる。開いたまま固定されてしまったかのような唇の端から唾液が一筋糸を引いて、鈍く光る木製の床に筋を描いた。
「けぇほ、けおほッ……かハ…ッああ、 ……ッ、 ……っぅ、う、か……は、……っふ、うくぅッ……  、 ……
 体を前後に揺らすとともに喀かれた弱い咳に混じって、鮮血の飛沫が紅花の花弁となって辺りに散った。戦慄く唇の先に灯る朱の雫がぽた、ぽたりと滴り床に模様を描く様をぼんやりと開かれた瞳はかろうじて視認していたが、日に当たって冴え冴えと存在を主張するその色が何を意味するのかを明確に意識することはないままに、青年は空白の世界へと意識を手放した。