薔薇の雪片

 一段と冷え込んだ今日は、朝から粉雪がちらついていた。
 昔から屋敷で働いている女中の千田は一番の理解者であり、共犯者でもある。毎年この日に誰にも告げずに屋敷を抜け出している事を彼女はちゃんと知っていて、こっそりと裏手の勝手口の鍵を外しておいてくれるのだ。
 大通りを抜けた先の駅から電車で五駅と、徒歩二十分ほどの所に妹の奈保子と彼女の母親は住んでいる。目は届くが生活が交差することはない、近いようで遠い場所。父親からしてみれば支配するのにもってこいなのだろう。
 駅を出ると、風にあおられた雪がくるくると渦を巻きながら足下をすり抜けていった。
 この時期の刺すような冷気は肺に毒だ。マスクの上からマフラーを幾重にも巻いているにも関わらず、細い空咳は止まってくれそうにはなかった。少し歩いてはケンッ、ケホケホと咳込む自分をうっとうしそうに眺める人の目も、体にまとわりつく雪にじりじりと体温を奪われ手指が冷たくなってくる頃には気にならなくなってくる。

っケほ、ケホケホッ…けほ、ケェンケンケンケン、けほ、っは、ハッ……

 三日前、妹のプレゼントを買いに出たときに風邪をひいたと屋敷の者たちにバレようものなら、屋敷はおろか部屋から出ることすら難しくなっていただろう。必死に咳を押し殺して過ごしたおかげでどうやら今日まで誰にも感づかれなかったようだが、そろそろ我慢の限界だった。
 立て続けに飛び出した咳に酸素を奪われ足を止める。慌てて息を吸おうものなら余計に酷くなるのは判っているから、マフラーの上から口元を押さえつけ息を止めて咳の衝動をやり過ごす。行き場を失った肺の震えに細い背中が二度、三度と痙攣するように揺れた。
 あと少しだけ。視界の端がじわりとにじむのを感じて目を閉じ、ゆっくりと五秒数えてからそっと手を離した。深呼吸を繰り返しても再び肺が暴れ出さない事を確認して、少し安心する。
 頬が熱いのは呼気が当たるからなのか、それとも熱があるからなのか。
 コートのポケットに手を入れると、ラッピングの袋のリボンが指先に触れた。妹の家まで、あと少し。

「久しぶり……愁也兄さん」
 半年振りに会った妹は、また少し背が伸びていた。
 会う度にこちらを見上げる目線が近くなっていく。それを嬉しく思う反面、前に会った時から随分月日が経っている事に気づかされて悲しくもなる。
「ああ、久しぶり。……十五の誕生日おめでとう、奈保子」
 後ろ手に隠した包みを手渡すと、彼女はぱっと輝いた笑顔を見せた。
「毎年本当にどうもありがとう、兄さん」
 彼女が母親共々家を追い出される原因となった自分がこうして誕生日の度に訪れることは、却って彼女に辛い思いをさせるだけなのかもしれない、と思う。それでもプレゼントを渡した瞬間の花がほころぶような笑顔を前にすると、少し赦されたようなそんな気がしてしまうのだ。
 赦されたいが為に妹を利用するだなんて、自分は兄として最低だ。
「母さんは今買い物に行っているから、どうぞ上がっていって」
 おおかた自分が毎年この日に訪れると知っているから、顔を合わせないように出掛けたのだろう。プレゼントを渡しに来ただけだから、とやんわり断ると、彼女は何事か口ごもりつつ俯いた。
 屋敷の主である父親が、嫡男として生まれた自分が病弱でとても家督が継げる体ではないと気づいてから秘密裏に女中に産ませた子どもが奈保子だった。女は跡継ぎにはなれない。奈保子は母親共々一年も保たないであろうはした金であっさりと厄介払いされたのだ。
 もしも彼女が男として生まれていたならば、追い出されていたのは自分の方だっただろう。いや、自分がこれほど弱い身体に生まれなければ良かったのだ。そう思うと余計に彼女に合わせる顔がなかった。
「律子さんが帰ってきた時に僕がいたら困るだろう」
「いいのよ、母さんの事は気にしなくて……兄さんが気を遣う事なんて何一つないわ。お願い、少しでいいから上がっていって。このままじゃ風邪をひいてしまうわ」
 奈保子の細い指が手首に触れた。瞬間はっとして腕を引いたが、もう遅かった。
「兄さん、熱があるでしょう」
 どうしよう、私がこんな所にいつまでも立たせておいたから、と泣きそうな声で奈保子が言う。
「大丈夫、大した事はないから……そんな顔をしないで」
「ねえ兄さんお願い、お願いだから上がって、泊まっていって。今晩だけでいいから」
 そんな状態で帰せやしないわ、と取り乱した彼女の目には零れんばかりの涙が溜まっていた。
「出る時に夕には帰ると伝えてしまったから、そろそろ帰らないと」
「そんなの嘘よ、兄さんのことだから誰にも告げずに来たんでしょう」
 もしも今夜帰らなければ、父親は真っ先に奈保子と母親を疑うだろう。口封じの為に何をしでかすかわからない。
 目の前の少女らしく華奢な背中を、そっと抱き寄せた。ふわりとした温もりに涙が零れそうになった。
「心配ばかりかける駄目な兄で、ごめん」
 誰よりも、愛している。
 口に出した瞬間の胸の痛みは、発作の時のそれよりもずっと痛かった。
 回していた腕を解いて二、三歩下がっても、奈保子は俯いたそのままで動こうとはしなかった。
「次に会うのはきっと来年だ……それまでどうか、元気で。良いお年を」
 声を殺して彼女は泣いていた。それでももう、自分がしてやれる事は何一つなかった。
 薄く積もり初めの雪に足跡を残しながらもと来た道を歩いてゆく。彼女の母親がこの道を通る頃には、この足跡もすっかり消えてしまうだろう。
「良いお年を!それと……それとね、」
 私も兄さんのこと、愛しているから!
 振り返ると、いまだ涙の残る頬に笑顔を浮かべた奈保子が大きく手を振っていた。

 ふらふらと彷徨い込んだ駅の近くの細い路地の先で、息も絶え絶えに咳き込み崩れ落ちた。
 どうやってここまで歩いて来たのか、熱に浮かされた記憶は朧げではっきりとしない。

っう、ハ、ぜほっぜほぜほゼェッ、ぜぃ、ゼ……ッくげほげほゲホッ……

 真冬の冷たい空気と風邪に痛めつけられた呼吸器は壊れたように咳を後から後から喀き出すくせに、酸素は全く取り込もうとしない。呼吸の主導権を病に奪われ成す術もなく咳きに咳くうちに体はぐらりと傾いで雪上に倒れ込んだ。

ひ、せひぃっ……う、ぁくっ……ッあ、あ

 横になったせいで余計に息が詰まる。どうしようもない苦しみが胸の中を逃げ場を探し暴れ回って、それは次第に圧迫され出口を失った肺から無理矢理に迫り上がろうとしていた。
 喀き出すための咳も、痛みに声を上げる酸素すらも残されてはいない。雪に頬を擦りつけたまま背を撓らせ声も音もなく喀き出した鮮血はマスクを染めマフラーを濡らして、雪の上に鮮やかなコントラストで広がった。

 奈保子。……僕の大切な大切な妹。
 その幸せを奪った僕が願えることではないのかもしれないけれど、どうか僕の分まで幸せに生きてくれたなら、兄としてこの上も無い幸せだ。

 酸欠に生理的に零れた涙が雪の上に点々と落ち、赤と混ざり合ってじわりと溶けてゆく。
 その様子を彼は既に瞳に映してはいなかった。