時折風に遊ばれ音もなく細波を浮かべる水面を、浮竹はただ眺めていた。
その瞳が景色を映しているのか、京楽にはわからない。京楽が雨乾堂にふらりと姿を現しても、浮竹は振り返ろうとはしなかった。
瞑想しているのかもしれない。瞳は開かれているかもしれないが、像を結んでいないかもしれない。京楽がその表情を窺い知る事は出来なかった。
「寝てなくていいの」
項に見え隠れする包帯の無機質な白さが目に痛くて、泥のように重い沈黙を破って京楽は声をかけた。
中空に放たれた言葉は、届けられるべきところに辿り着けないままふらふらと漂う。呼吸一つさえも絡めとられてしまいそうな目に見えない結界が部屋中を雁字搦めに縛り付けていた。少しでも動けば、言葉を発せばその衝撃で千々に砕け散って、それと一緒に掛け替えのないものまでも巻き込んでバラバラにしてしまいそうな何かがそこにはあった。
「大丈夫だ」
返事にしては遅過ぎる間の後に、怠さの滲む応えが返る。声を発したのが引き金になったのか、浮竹はぶるりと背を震わせると肺腑の底を抉るような重い咳をした。
しばらく見ないうちに、浮竹の背は随分と削いだような細さを感じさせるようになっていた。その瘦せた背の更に奥深くに潜む、病んだ肺から全身へとその手を伸ばす瞬間をじりじりと待ちわびている闇色の目がひたとこちらを見遣ったような気がして、京楽の身は寸の間引き攣った。
「甘い物が食べたいなあ」
まるで花見にきているかのような呑気ぶりで浮竹は呟いた。
「僕は甘いものよりも、お酒が飲みたいかな」
呑気に返したように聞こえれば良いと京楽は思った。浮竹の内に宿る、今この瞬間も京楽のことをひたと見つめているであろう昏い目に知らずのうちに怯えて、声が震えていない自信はなかった。
幾重にも重なった雲でどんよりと白んだ空から冷えた風が吹き下ろしてきて、浮竹の白い髪を揺らす。春霞にけぶる桜吹雪の様だ、と京楽は思った。春の似合う温みのある白い髪が思うまま吹かれ遊ぶのを、酒を片手にただ眺めるのが京楽は好きだった。
「神様はおはぎが好きかな」巻き上がる髪を指先で弄びながら、ぽつりと浮竹は言った。
「神様によるんじゃない? まあでもお供え物と言えば食べ物、なんてイメージもあることだし、きっと食べる事は好きなんじゃないかなぁ」
「そうか、ならこれからも美味しいものを食べられそうだな」
その言葉は一体どんな表情の元に吐き出されたものだったのか、依然として京楽には窺い知れなかった。その顔を見てはいけないと思った。見たら最後、この春霞のような男は今度こそ本当に自分の前から消えてしまうのではないかと本気で考えてしまった。
「……君は莫迦だよ」
面と向かっていたら、こんな言葉は言わなかったかも知れない。透き通る翠の目の強さに射すくめられて言葉を飲み込むか、あまりの純粋さにうたれて取り乱すかしたかも知れない。
浮竹は何も言わなかった。ただそのまま、疲れたようにゆっくりと柱に頭を凭れかけさせた。肩に掛かっていた白髪が滑り落ちて柱にぱさりと当たる乾いた音が、植物が萎びれ枯れる様を思わせた。
「君は神様じゃない」
独り言のように京楽は口にした。京楽自身も驚く程に、弱々しい響きをしていた。
「神様じゃない」
何か黒い思いが呪詛のように自分に巻き付いていると京楽は思った。幼い頃に浮竹を蝕んだという肺病も、ただ一心に愛したが故とはいえ迷う事無く怪しげな土着神に浮竹の身を捧げた彼の両親も、選択の自由のない幼子一人に世界の命運を背負わせた霊王さえも、今は全てが憎いと思った。
翠の目は揺らがない湖面をただ見つめている。そよぐ風に、肩にかかった髪がはらりはらりと滑り落ちて、毛先が畳に擦れて微かな音を立てている。
「誰にも愛想良く、けれど誰にも深く踏み入らず。『浮竹十四郎』という存在が、所詮仮初めの肉体に宿る期限付きの精神に過ぎないとわかってからは、そういう風に生きようと思った」君が一目でそれを見抜いた時には本当に驚いた、と浮竹は思い出すようにふっと笑って言った。
出会ったばかりの頃、浮竹の聖人君子のような振る舞いが嫌いだった。
「君さぁ、どうしてそんな気味の悪い笑い方するの」
そう言い放った瞬間の浮竹の驚いた顔を、その後の太陽のような笑顔を京楽は今でも覚えている。
「お前は、俺が決して外には見せないよう隠していた陰を一瞬で見抜いた。そこに踏み込まれるのは俺にとって恐ろしいことだと思っていた……だけどお前が入ってきたとき不思議と心が軽くなった。気味が悪いと言われたのに、何故かとても嬉しくなった」
「明確な悪意をもって発した筈の言葉に、満面の笑みで返された僕の気持ちにもなってよね……全身の力が一気に抜けたよ、あれは」
それぞれを見てみれば容姿も性格も趣味も何もかもがこれでもかと正反対のような二人は、初めて互いの隠し持つ陰がよく似ていると知った。
陰で繋がった二人の間には、えも言われぬ退廃と高揚が生まれた。よく研いだナイフの切っ先をむき出しに差し出したかのような危うさを孕んだ世界を、関係を二人は愛していた。
「何も出来ぬまま消える筈だった命が拾われて、統学院でお前に出会って、沢山を学んで、護廷十三隊に入るまでになって……気がついたら、ちっぽけだった俺の世界は両手になおあまりある大きさになっていた。その全てが愛しくて、守りたいと思った。守るための力が自分の内に宿っていることに、初めて感謝した」
「まるでその世界の全てには、君自身は含まれていないみたいな言い方をするよね」
浮竹の気高い魂は悲しい程に孤独だった。その寂しさに最後まで寄り添おうと、京楽はもうずっと昔に心を決めていた。
誇り高いその魂は諸刃の剣だった。斬るべきものと一緒に自身までも破壊してしまいそうな危うさが潜んでいることに気がついているのは自分だけだと、いざという時には力づくでも止めてやれるのは自分だけだと、京楽は本気でそう思っていた。魂の強さに耐えきれない虚弱な身体が幾度となく限界を超えて血を喀き臥せる度に、戻っておいで、と呼びかける存在が必要なのだと判っていた。
浮竹が何の為に生きているのか、またその行きつく先を京楽は知っている。いつかどこかで必ず、その身に宿した力を使う日が来るのだと知っている。それが浮竹十四郎という、京楽の愛したひとりの死神を神に化えてしまう事を知っている。水面に映る高葦の先がゆらゆらと細波の形に揺れる様をにこやかに見ているこのひとときも、いつか神になるべく辿る一足の途中に与えられた束の間のやすらぎなのだと知っている。
「君が好きだよ、浮竹。君の覚悟も、誇りも、優しさも、何もかもが好きだ」
全て知った時にはもう、全てを受け入れていた。何も言わずとも浮竹はそれを自身の在り方でもって伝え続けていたのだろうし、京楽もそれを感じ取っていた。言葉にせずとも、二人は全てを知っていた。それができるだけの悠久の時間を、共に過ごしてきた。
「だから僕は、君の戦いに手を出さない」
水面を駆け抜けてきた一陣の風が、浮竹の長い髪を巻き込んで一息に部屋に吹き込んだ。それに引かれるように浮竹は振り向いた。
「ああ、俺の誇りを見ていてくれ、京楽」
滲むような笑顔をみた瞬間、やはり浮竹は神などではないと思った。
神々しいまでの白の内に輝く頬の赤さは、血の通った生き物の美しさだった。
「ばかだよ」
浮竹はただニコニコ笑っていた。
「ばかだ」
「ありがとう」
二人の間に風が走る。磔のような呪縛に絡めとられていた京楽の手が生を取り戻して、爪先がかり、と畳で音をたてる。
「浮竹。触れても、いいかい」
畳の目を見つめたまま、京楽は静かに言った。
いっその事全てを滅茶苦茶に壊してやりたいと京楽は思った。穢れなきその身体を滅茶苦茶に抱いて、全部全部台無しにしてやりたかった。
神様よりも先に浮竹の綺麗なところ全てを余す事無く喰らい尽くして、これはもう純真無垢な依り代などではないと知らしめてやったなら、神様は諦めてくれるだろうか。
「これはもうすぐ、ミミハギ様の身体になる。ひいては霊王の身体に。京楽のものにはもう、なれないんだ」
浮竹は儚い笑みを浮かべた。その答えすらも、問う前から京楽にはわかっていた。
それは浮竹の誇りだった。京楽はそれを美しいと思った。その隣に在れることを誇らしく思った。
「知ってる。……見ているよ、必ず。君が最後まで誇り高く、死神として生きる様を」
浮竹は何も言わぬまま白い指先をそっとのばして、畳に爪を立てたままの京楽の浅黒い指先に重ねた。
指先には確かな温もりがあった。
生きている温かさだと、京楽は思った。