永訣の明日 - 1/2

 不穏にさざめく意味を成さない文字列に埋もれながらもどこか懐かしい色をした本の中の町から、霧の晴れるように見慣れた図書館へと帰りつく。艶やかな木床をかつり、と下駄がひとつ叩くと同時に、どこからか良い匂いが漂ってきているのに気がついた。
「あっ、室生さん、おかえりなさい。随分早かったですね」
「やあ、ただいま。……たっちゃんこ、随分と楽しげじゃないか。俺逹が行ってる間に準備は進んだのかい?」
 こちらの物音を聞きつけ食堂から顔を出した堀はニコニコと嬉しそうにしている。
「はい、もうすぐ終わりますよ。皆さんも身支度がすんだら来てくださいね」
 たっちゃんこー、ちょっと鍋の火加減を見てくれないかな。遠くから彼を呼ぶ芥川の声に、ではまた後でと堀は食堂に戻っていった。
 普段ならば午後のうちにもう一度潜書をするのだが、今日はそれがない。今日は尾崎紅葉の誕生日で、もうすぐパーティーが始まるのだ——潜書を減らしてまですることなのかと憤った者もいたが、まだ転生してきて日の浅い者もいることだし、日々侵蝕者との戦いに明け暮れるだけでは疲れてしまうでしょう、との司書の一言で開催が決まり、折角のハレの日だどうせやるなら盛大に派手にいこうと盛り上がって、気がつけば始め反対していた者までどこか楽しげに、尾崎門下の二名を筆頭に朝から着々と進められる準備に参加していた。
「いやあ、盛り上がっとるなあ!」
 なんやええ匂いしますなあ、カレーはあるんやろか。犀星先生は今宵の献立知っとります? 室生のすぐ後ろを歩く織田がからからと笑う。
「カレーはどうだろうねえ……紅葉先生は甘味がお好きだって聞いているからなあ」
 さよか、犀星先生も献立知らへんのかあ、と織田は少し気の抜けたような間延びした声で答える。あぁしんど、と背を伸ばす気配がふと胸のどこかに引っかかった。
「どうしました? 犀星先生」
 振り向いた先の織田は相変わらずの笑みを浮かべている。
「いや、特に何ということでもないのだけれど……そうだ織田君、さっきの怪我は大丈夫かい」
「ああ、このくらいなんてことないですわ。補修せんでも、放っておいたら治るんで気にせんとってください」
 破れたジャケットの裾をつまんでへらりと笑ってみせる織田は普段と変わらなく見える。彼が無理の滲む強がりを口にするのは今に始まったことではないから今回もそういうことなのだろうが、それにしても何かがおかしいという気がしてならなかった。
「織田君、無理はいけないよ」
「ワシ、そないに弱った顔してます?」
「いいや、いつもと変わりないとは思うよ。ただ一瞬、妙な不安が胸をよぎっただけさ」
 先生、気にしすぎですわ! 先生こそ疲れてるんとちゃいます? 笑い飛ばす織田の声音はやはり普段より少し怠そうだと思った。
 変えることの難しい、魂の性とでもいうべき何かを誰しも持っている。生まれ落ちてから死ぬまで、脈々と続いていく道の上を今この瞬間歩いている最中の生身の人間であれば、それは少しずつ変わっていくこともあるだろう——戦争や、生涯の伴侶との出会いや、親愛なる友との永遠の別れによって。しかしアルケミストの力によって転生した今はどうだ。この肉体と魂はかつての己自身の魂と、その結晶とでもいうべき作品で構成されているとはいえ、限りなく人間に近い思考や意識をもつ「人為的に作られた何か」だ。己の意思が介在する余地のないところで形成された魂の性は、果たして可変性を持つのだろうか。
 今自分のすぐ横を歩いている織田作之助という存在には、かつての彼の快活さ、作品に残されたあの当時の気配、そして何より鮮烈な、一瞬の光芒のように駆け抜けて散ってしまった気迫と危うさが詰め込まれている。はっとさせる美しさをもつその魂にもし可変性がないとしたら、彼はこの二度目の生も同じように書いて書いて書き飛ばして、糸の切れるまで踊り続けてそうしてある日突然ぷつりと終わってしまうのではないか。
「犀星先生、ワシちょっと新作の構想を書き留めてから行くから、少し遅なるわ。皆に伝えとってもらえます?」
「あ、ああ……わかった。あまり根を詰めるなよ」
 ボロボロの服も着替えんとなあ、いくら美男子やからってこれは様ァないですわ。危うさの本質に手を伸ばすことを躊躇っているうちに、気まぐれな猫はへらへらと笑うとふらりと図書館の奥、自室のある方へと行ってしまった。ひょろりと背の高い痩躯に投げかけようとした言葉は飲みこまれて、室生の胸の中をあてもなく彷徨うばかりだった。

 わいわいと楽しげに騒ぐ仲間達を、少し酒の入った頭でふわふわと眺めている。はじめこそ朔と一緒にいたのだが、彼は三好君に連れられて料理を取りに行ったきり戻ってこない——きっと今頃は朔先生、朔先生と甲斐甲斐しく世話をやかれているのだろう。
 手元の皿に一口分残ったケーキに目を落とす。ころんと一粒残った小ぶりな苺をフォークでつついて——ふと脳裏に浮かんだのはなぜか織田の姿だった。からからと屈託なく笑い、持ち前の明るさとこの図書館に最初期からいる頼もしさでいつも皆の中心にいる——そうか、彼の瞳はちょうどこの苺のような艶やかな色をしているのだ。
「室生先生が壁の花だなんて、似合わないですね」
「おや太宰くん、君こそパーティーの中心から外れてこんなところまでくるなんて、珍しいんじゃないか?」
 姿を追わずとも視界に入ってくる派手な長羽織姿のこの男は、皆の中心でわいわいやるのも勿論うまいが、するりと何気なくそこを抜け出してくるのもうまい。なるほどそういうところも織田君と気の合う理由のひとつなのかと、ふとそんなことを考える。
「ふっふっふ、何と言っても今日の主役は尾崎先生ですから。俺みたいな輝ける男がいつまでも中心にいたんじゃパーティーも盛り上がらないってもんでしょう!」
 先生もそんな端っこにいないで、ほらほら飲んで食べて! グラスを手渡されるがままに傾けると、太宰はほんのりと上気した頬をしてふふ、と笑った。
「室生先生、今オダサクのこと考えてたでしょう」
「……流石。友人のこととなると鋭いんだな」
「先生の目が、わかりやすーく『心配だ』って言ってますよ。俺じゃなくても気づきますって」
 ああでもどうだろうなー、やっぱ俺が天才だから気づけたことだったり? 茶化して笑う太宰につられて笑うと、ふっと心が軽くなるのを感じた。
「オダサクのことなら俺に任せて、萩原先生を迎えにいってくださいよ。さっき見た時、萩原先生もうほとんど酔いつぶれちゃってて」
「おや、それは大変だ。……じゃあ、織田君のことは君に任せるとしようか」
「よし、確かに任されましたよ、っと!」
 では先生また後で。パーティーは楽しまなきゃ損ってもんですよ! グラスだけでなく料理が山と積まれた皿まで室生に押しつけて、太宰は長羽織の裾をひらひらさせて食堂を出で行こうとする。
「太宰くん!」
「ん?」
「その、君には……織田君が何を見て、どんなものをその身に隠しているのか、わかるのかい」
 想定外の言葉だったとばかりに、太宰はきょとんとした顔をした。それから、ゆっくりと笑う。
「別に、何でも手にとるようにわかるってわけじゃないです。室生先生と萩原先生の方が余程、お互いわかりあっていると側から見ていて思いますよ」
 俺とオダサクがかつて実際に会って話をしたのはたった二回、二回だけなんですから。そう呟く太宰はどこか寂しげだった。
 
 ふと窓の向こうを見る。ちらほらと細かい雪が降り始めていて、雪深い兼六の冬を思い出した。暖かな図書館から眺める外の景色はひどく寒々しく思えて——

(ああ、そうか。そうだったのか。織田君は、今日のような寒い冬の日に死んだのだ)