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 ふわりふわりと意識が明滅を繰り返している。白んだ視界の先ではシンプルな木目調のシーリングファンが覇気のない速度で駆動していて、ぐるぐると一定のはずのリズムが速くなったり遅くなったり、羽が二重に見えたりしていた。潜書をついさっき終えたばかり、館内醫院は満床で、あぶれた二人は傷ついた心を寄せ合うようにして順番を待っていた。
 とさりと軽い音とともに、作之助の肩に柔らかな体温が凭れかかる。
「太宰クン、あと少しの辛抱やからな。寝台空いたら先に入り」
 肩に頭を預けたまま、太宰はただ上の空で宙を眺めていた。一段落とされた仄暗い照明ががらんどうな瞳にぼんやりと映り込んでいる。無機質な光が瞬きの度にふらふらと泳いでまるで泣いているようだった。カサカサの唇が震えて、かろうじて音になった声を吐き出す――なぁんも、たのしくない――死にたい。
 この状態になってしまった太宰に何を言っても仕方がない。寝台に放り込まれて洋墨を継ぎ足され、一眠りしている間に錬金術とやらで魂を修復されるまで、こうして傷ついた心を剥き出しのままに彷徨わせている。ひどく痛々しくて孤独で哀しい太宰を、作之助は誰にも見せたくなかった。誰の目にも触れさせてはならないと思った。彼の心情を汲みとっての行動だったが、孤独に沈んだ太宰の魂はどこか自分と似た色をしている気がしていたから、無意識のうちに自分自身の心を守るための行動であったのかもしれない。
「なァ、太宰くん」
 太宰は答えない。答えないかわりに、猫のように頭をすり寄せてきた。
 寂しい、ひとりにしないで、置いていかないで。太宰が身を捩る度に触れ合う先から感情が染み込んでくる。作之助はされるがままにしていた。何度か引っ張られるうちに緩んだ髪留めが外れ、からんと虚ろな音をたてて床に転がった。
「太宰クン。ワシと、心中しよか」
 舐めた唇からは血の味がした。言ってしまってから可笑しくなった。自殺癖を直せだなんて、同じ口でよく言えたものだ。しかし間違ったことを言ったとは思わなかった。自分の胸の内にも虚ろで甘美な破滅願望があることを作之助は自覚していた。
「本気で、言ってる……?」
 太宰はのっそりと身を起こした。声には疑心があったが、力を失った黄金色の目は縋るような熱を帯びていた。本気で終わりを求めている瞳だった。
「太宰クンとやったら、終いにしてもええよ」
 太宰はしばらく感情を失ったように表情を変えないままだったが、やがてその言葉の意味を理解したのか、こくりと幼く頷くと幽かに笑った。ずっとその言葉を待っていたかのような、憑き物が落ちて晴れ晴れとした、壊れ物のような薄く儚い笑みだった。

 そうして戯れは本気になった。翌日の昼過ぎ、食堂のさざめく笑い声に背を向けて、はみ出しものの二人は図書館を抜け出した。

 

「なぁ、どこまで乗っていくつもりなんだ?」
「さあな……地の果てまでやろかねえ」
 寂れたバスの、スプリングの軋んだ最後尾の席に二人並んで体を押し込めてから随分と時間が経った。年も名前も知らない人々が波のように乗ってきては降り、また乗ってきては降りを繰り返し、ついに車内には二人だけになった。
 次は××、次は××です。お降りの方は降車ボタンでお知らせ下さい。古いスピーカーから流れる女性の声のアナウンスは少し音割れしていた。誰もボタンを押さず、やがてバスは待合所も無い小さな停留所の前を速度を緩めることなく通り過ぎた。古びたエンジン音だけが単調に響く車内は、一切の静寂に満ちた空間よりもなお空虚で静かだった。
「オダサク、俺たち二人きりになったな。どこまでもどこまでも一緒に行こう」
 窓の外に目を向けたまま、太宰はぽつりと呟いた。
「ほんとうのさいわいを探しに行くんやね。太宰クンとやったら見つかるかもしれへんなあ」
 さながら北十字から始まり南十字で終わる旅のようだと、作之助は戯曲めいた調子で口ずさんだ。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。――ほんとうの神さまって、なんやろうねえ。
「俺はね、ずいぶん走ったけれども遅れてしまったんだよ」
 太宰の横顔は赤々と夕日に照らされていた。国道沿いの、黒々と影になった防砂林の合間からこぼれる光は眩しかった。ふと外の空気が吸いたくなって、作之助は太宰の肩越しに窓へと手を伸ばした。錆の回った窓は片手の力では開かず、二人でせぇのと声を合わせて引っ張ってようやくがたがたと軋んだ音をたてて開いた。音のなかった車内に遠い波音と潮の匂いが吹き込んできた。
「いかがですか。こういう苹果りんごはおはじめてでしょう」
「立派ですねえ。ここらではこんな苹果りんごができるのですか……って太宰クン、これみかんやん。どっからどうみてもみかんやん。ワシが大阪人やからって軽々しくノリツッコミ求めんといて」
 太宰がどこからともなく取り出したみかんに突っ込みをかましつつ、二つに割って食べた。体温で温んだみかんは甘酸っぱくまろい味がした。
「この切符、ほんまにどこまでも行けたりするんじゃないやろか」
 バスに乗り込んですぐにポケットの奥に大事にしまいこんだ切符がいつの間にやら本当の天上にさえ行ける代物に変わってはいないかと期待して、二人は恐る恐る取り出してみた。ポケットの紙切れは相変わらずただの小さな、少なくともこの路線の終着駅までは行けるはずの切符のままで、二人は吹き出すように笑いあった。