その日は妙に慌ただしかった。
ちょっと目を離した隙に餡子を焦がしてしまって店中妙に香ばしい匂いが漂う中、ひっきりなしに訪れるお客さんを次から次へと案内する。昼過ぎには席が足りなくなって、店前の腰掛けも埋まった。それでも溢れたお客さんは立ったまま、野立傘の下でお茶を飲んで井戸端会議に花を咲かせていた。
特に何かがあるわけでもないのに、何故だかどっと人が集う日がたまにある。老いも若きもなんとなくお茶を飲んでほっとしたい気分になる何かが、町中に漂っているみたいだった。わけもなく疲れてしまう瞬間というのは、案外みんなに共通して訪れるものなのかもしれない。
数えきれないくらいお茶を淹れて、何人もの他愛ない話に付き合って笑って。気がつけば太陽は随分と西に傾いていた。
お昼ご飯、食べそびれたな。そう意識した途端に空腹を自覚して、店仕舞いに取りかかる前にちょっと座って休むことにした。
お母さんの作ってくれたお稲荷さん、まだ残ってるかな。もうおばちゃんが食べちゃったかな。ああその前に勝手口に届いているはずのお砂糖と小豆を回収しないと、また虫に食われてしまう。
やっぱりやること全部済ませてから休もう。そう思い直して、無駄に勢いをつけて立ち上がった。
ずっと店の中にいたから、外の風を浴びたい気分だった。遠回りになるけれど一旦通りに出て、ぐるりと回ってお勝手に行こうとした。
店頭の腰掛けに、男の人が座っていた。
いつからいたのかわからない。三十分ほど前まで、そこでは小さな女の子を三人連れた家族が仲良く座ってお団子を食べていたはずだ。お会計はおばちゃんに任せきりだったから、ばたついているうちに見送り損ねてしまったらしい。
その男の人は不思議な雰囲気を持っていた。なにもないところから突然舞い降りたみたいに、どこか浮世離れした風情があった。背姿だけでは誰だかわからない。こんな雰囲気の人ならすぐに覚えそうだから、少なくとも常連さんではなさそうだった。
初秋には早い、暖かそうな冬羽織を袖を通さず肩からかけて、俯きがちに佇んでいる。やや伸びた襟足がうなじを半ば隠して、ほっそりとした首を一層華奢に見せていた。まるで女の人みたい。
とりあえず、お茶をご用意して差し上げなくちゃ。そう思って、声をかけようと横へ回った。
西日に照らされた顔が見えた。
少し神経質そうな尖った輪郭、すっと通った鼻筋、日に透ける淡い睫。目の前のものを映しているようでいて、本当は誰の手にも届かないどこか遠くの景色を吸い込んでいる、黒の中に少しだけ青と榛が混ざった瞳。
世界から音が、すうっと遠ざかって消えた。立ち眩みを起こしたときのような静寂。不思議と怖くはなかった。
やがて、とく、とく、と胸の中で鼓動が静かに時を刻むのが聞こえだした。とく、とひとつ打つ度に、散り菊の最後の火花がぱしり、ぴしりと跳ねて足元に落ちる。いまにもしぼんで消えてしまいそうな中心の灯は、それでも振り絞って息をしていた。
私はふらふらと一歩を踏み出した。体の自由が利かない。おかしいな、お人形になっちゃったみたいだ。
本当にお人形になれたらよかったのに。そうしたら、こんなに泣きそうな気持ちになんてならずに済んだのに。
何も言えずに、私は腰を下ろした。人ひとり分の距離を空けて、三年ぶりに彼と再会した。
さっきはあんなにも不躾に見つめられたのに、今はもうできない。じっと目を伏せたまま、どうしても顔を上げられない。
声も出せないままに、永い永い一瞬が過ぎた。
幽かな衣擦れの音がした。左目の端に、淡い水色の羽織の袖口が泳いだ。
そっと盗み見る。腰掛けに置かれて夕暮れの光に照らされた手指は、私のものより細く白かった。右の人差し指の爪の先が欠けてがたがたとしていて、そこだけ妙に生々しく見えた。
「ひぐらし、」
ふいに彼が言葉を零した。
私ははっとして顔を上げた。彼はこっちを見てはいなかった。正面に視線を向けたまま、淡い瞳で世界を眺めていた。
暮れかけた空に、しっとりと物哀しい鳴き声が転がっている。ヒグラシ、ひぐらし……ああ、蜩。ようやく言葉の意味が染み込んで、私は馬鹿みたいな瞬きをした。
途端にぱちんとひとつ、火花が弾けるように目の前が開けた。
わたしは、この人のことが好きだ。
「もう、秋ですね」
彼の声は記憶の中のものより低かった。知らない間に大人の声になっていた。
「また来てくださって嬉しいです。……平野先生」
だからもう、彼のことをけいちゃんとは呼べない。