「平野さんのとこの長男、先月帰ってきたんだってさ」
日が暮れる少し前の、ぼんやりと温い時間。なんてことはないありふれた茶飲み話。それでもその声は人の間をするりと抜けて、私のところまで矢のように真っ直ぐ飛んできた。
ぱた、と雑巾が落ちた。空になった手を見る。昨日夕飯の味噌汁に入れる葱と一緒にうっかり切った人差し指の爪の先の、不格好に欠けた半月型に髪の毛一本分の罅が入っていた。
「ようやく家を継ぎに? ……ああ、そういうことか。昔から病弱だったからなあ。あんまり大きな声じゃ言えないが、成人できるかどうか……親父さんもさぞ無念なことだろうね」
五月雨の先週と打って変わって、顔を上げれば久々の晴れ空が眩しい。爽やかに吹き込む緑の気配、夕暮れ間近の大通りの浮足立った喧噪、茶菓子の仄かな餡子のにおい。
ふいに胸に湧いた、真夏の夕立雲のようなざわめき。
「けいちゃん、」
雲の端からぽつんと声がこぼれ落ちた。誰にも聞かれないくらいの小さな声だったが、私の心だけはしっかりと聞いていた。
声は胸の奥に仄かな火をつけた。長らく存在を忘れられていた小さな部屋に、ぽっと灯りがともった。火はちろちろと舐めるように揺れて、白い壁に橙色の光を落とした。
平野さんのところの長男。幼馴染の直次くんの、三歳年上のお兄さん。優しい人だった。仕事の繋がりで家同士仲が良くて、かつては三日に一度は会っていた。小学校に上がるくらいまでは、本当の兄だと半ば信じていたくらいだった。
幼い頃の記憶は鮮明ではない。うっすら色づいた朝靄のようにあやふやで、触れようとするといつも指の間をすり抜けてしまう。
逆に、最後の数年間のことはやけにはっきりと記憶していた。彼が高等小学校を卒業する間近、いつも何かに思い悩むような顔をしていたのを覚えている。それに気がついた頃から、彼との間には距離ができた。いつしか彼は私を見てくれなくなっていた。いや、見てはいたけれど、そこに私は映っていなかった。
少し寂し気な、凛と澄んだ瞳はいつもどこか遠くを見ていた。だからこの町を出ていくと聞いたときは納得した。彼にこの町は小さすぎる。あの瞳に、深い思考に相応しい世界に行くべき人だと思う。
けいちゃん。いや、今はもう幼い頃のようには呼べないだろう。啓司さん。教師になるために東京に行った、優しくて明晰な人。もう三年は会っていない。
「仁美、これよろしくねー」
店の奥から母が呼んだ。それをきっかけに、周りの音と色がゆっくりと戻ってきた。
澄んだ青空、店前を通り過ぎる人の持つ、葱の飛び出した桐唐草の風呂敷包み。店の看板代わりの、ぱりっと鮮やかな赤い野立傘。
「いま行きます」
私はいつも通りの明るい声で返事をした。
胸にともった蝋燭が、かたんと音をたてて転がった気がした。今ならまだ消し止められる。
でも私はそれを、見て見ぬふりでやり過ごした。
大通りに面した茶屋には、町中の噂話が集まってくる。聞きたいものも、聞きたくないものも。そのおかげで、数日のうちに細かい事情を知った。
彼は東京で、生来弱い身体に見合わぬ無理をして仕事を続けられなくなり、ひと月ほど前に止む無く帰郷してきたという。教師ならこの町でもできると思いきや、師範学校の公費支給と指定期間勤務の制度の関係でそういうわけにはいかず、それ以前に日常生活さえ儘ならない体調では療養することしかできず、両親も家業を継がせることは諦めつつある……という次第らしかった。噂話に過ぎないのでどこまで本当かはわからないけれど、おおむね正しいのだろう。茶屋の娘として五歳の頃から店頭に立っているのだ、飛び交う噂話がどれくらい信用に値するのかおおよその嗅ぎ分けくらいはできる。あの嫌な感じ、狭い世界特有の閉鎖的な湿り気は、恐らく真実だ。
望んで帰ってきたわけではなかったのか。この町で生きていくためではなく、仕方なくだったのか。
帰ってきたと聞いた日から、そう遠くないうちにまた会えるのを楽しみにしていた。ある日店にふらりと現れて、あの頃と変わらない柔らかな笑みを浮かべる彼を何度も何度も想像してはひとり勝手に嬉しくなった。
その日がきたら、私は母に小言を言われながら、たまに店を手伝ってくれる近所のおばちゃんに揶揄われながら仕事の手をちょっと止めて、店前の野立傘の下の特等席に彼を案内するのだ。そうして今の季節におすすめの茶菓子の話をしながら隣に腰掛けて、それから……
それから?
東京にはどんな人がいて、どんな暮らしがあって、そこで貴方はどんな生活をしていたの? 貴方の目が映してきたもののことを教えて?
ほんの少し、三年という月日のたった一秒でもいいから。私のことを思い出す瞬間は、ありましたか?
訊けるはずもない。望んでここにいるわけではない彼を傷つけることになる。それくらいのことは私にだってわかる。もう無邪気な子どもではいられないのだ。
本当は、あの頃みたいにもう一度話がしたい。
彼はいくら待っても店に来なかった。春が終わり、駆け足で梅雨が過ぎ、あっという間に夏の盛りを迎えてやがて秋の入り口に差し掛かっても、彼は来なかった。
来ないのではなく来られないのだろう、と思うことにした。療養しに帰ってきたのなら、無理をさせてはいけない。ましてやわざわざ会いにいくなんてことは許されない。私は茶屋の娘らしく、ここで待っているくらいがきっとちょうどいいのだ。
胸の灯は散り菊くらいにはまだ瞬いていた。