さくらの日 - 2/2

 縁側の向こう、朧に見える山はまだ春には遠く、寒そうな景色を晒している。残雪は随分と減り、日に日に土の茶色が面積を増やしているが、まだ春の色は見えてこない。
「随分と遠いな。家の裏手とか庭の片隅とか、いつでも目に入るところを選ぶかと思った」
「それでもいいんですけれどね」
 先生は感情を閉じ込めるように目を伏せて、それから少し笑った。
「でも、それでは想いが強くなりすぎてしまうでしょう」
「想い?」
「遠目から見たら、どれだかわからないくらいの方がいい。……その方が特別な想いを抱くことなく、さっぱりと眺めていられるから」
 そうは思いませんか? 先生は少し掠れた声で問うた。
「最初は、すぐそばに寄り添っていなければならない。小さくて弱くて、強い風に吹き倒されないように、激しい雨に流されてしまわないように、いつでも守ってあげないといけない。
でもいつか、そう、ふと目を向けたときにはいつの間にか、ひとりで立つようになるんです。そのときがきたら、遠くから見てああ、あの中のどれかなんだと思うくらいがきっと、ちょうどいい」
「先生。……それは、子どもたちのことを言っているのかい」
「その質問は、意地悪だと思いますよ」
 でも、きっとそういうことなのでしょう。先生はぽつりと呟いた。
「たまにでいい……そう、例えばその花が毎年咲く頃にだけ思い出してもらえれば、それで十分だと思うんです」
「いつでもそばにいなくても?」
「ええ。その心が少しだけ陰ったときに、ほんのわずかの揺らぐ光になれたら、それでいい」
 どこまでも飛び立てなくとも、手の届く範囲の大切なものを愛おしめばいい。いつかそれが、遠くに旅立つかもしれないのだから。先生はそういう人だった。
「よし、じゃあ先生の言う通り、あの山に植えるとするよ。やっぱり……桜かな」
「藤倉さんが好きな花なら、なんでも」
 好きな花なんて、ここに来るまでは考えたこともなかった。先生に出会ってから、目に映る景色の深さが増した。
 もらったものは沢山あるのに、まだひとつも返せていない。まだひとつも、きちんと言葉にできていない。伝えたいことはあとからあとから生まれてくるのに、ひとつとして形にできていない。
 時間が足りない。性急には伝えたくない。これからもひとつひとつ、積み重ねたり様子を窺ったり吐き出したり抱え込んだりを繰り返しながら歩んでいきたい。それなのに。
「なあ。春になったらさ」
「はい」
「春になったら、一緒に植えにいこう」
 先生はしばらくじっとこちらを見つめたあと、何も言わずふっと目を閉じた。