花をし見れば

「文金の島田髷の由来はご存知ですか」
 柔らかな声に、私はいいえ、と答える。
「嫁ぐ娘を想って母親が髷の中に小判を一枚忍ばせた、そんな逸話が由来ともされていましてね。まあ、諸説あるうちのひとつですけれども」
 着付けをしてくれている婆は御年七十を超え、聞くところによれば幼き日に両親に連れられて黒船を見にいったというから驚きだ。
 何気ない会話を挟みつつ、その手つきは淀みない。美しく結った髷の根元にそっと小判を差し入れる仕草をしてみせた婆に、私はようやく思い出したぎこちない笑みを向けた。
 小梅の地紋の赤い長襦袢に、縁起花の鮮やかな黒の引振袖。何も知らない小娘から一人前の若奥様に仕立て上げられていくようで、自然と眉のあたりに緊張が滲む。
「さあ、お嬢様。……いいえ、本日からは奥様になるのでしたね。奥様、お綺麗ですよ」
 そんな不安と緊張をひとつひとつ手にとって解していくように、粛々と身支度は進んでいく。金銀の華やかなる帯を重高く結った上に、緋色のしごき帯をさらりと流す。ふわりとした穂先が金魚の尾ひれのように揺れて、目の端に映った髪飾りがちりちりと鳴った。
「不安で不安で仕方がない、といった心具合かしら?」
 正直に頷くと、婆はそうでしょうとも、お顔にそう書いてありますからと笑って私の肩を優しくぽんぽんと叩いた。
「大丈夫、自信をお持ちになって。あなたは今日、他の誰よりお美しいですよ」
 田舎町の端っこにあるささやかな茶屋の娘だ、女中にあれこれと世話を焼かれたこともなければ、花嫁修行だ礼儀作法だと厳しく育てられてきたわけでもない。幼い頃から家を手伝ってきたおかげで、最低限の料理の腕前と人当たりの良い笑顔だけはなんとか身につけてきたが、逆に言えばそれしか持っていない。
 私はこれから嫁ぐ。両親の選んでくれた人とお見合いで出会ってそのまま結ばれた。都会では形式に囚われない自由恋愛が広まりつつあるというが、四辺を山と雪に囲まれたこの片田舎ではいまだ旧来の結婚観が根強い。そのことに不満は特に覚えなかった。今年で二十四、行き遅れだと囁かれ始めていた私にやっと決まった小さな縁を大切にしたいと心から思っていたし、何より旦那様は優しい人だ。
 旦那様になる人は私より六つ年上で、財務官の個人書記をしている。これといってまずいところがあるわけでもないのに、三十歳にもなってこれまで浮いた話や見合い話のひとつもなかったのは変わり者だからだ、無愛想でぼうっとしていて何を考えているのかよくわからない、などと周りの皆は苦笑混じりに言うが、私はそうは思わない。
 初めて引き合わされた日のことをよく覚えている。突然ふたりきりにされて戸惑う私を不器用に誘い出して庭に出て、陽だまりに揺れる花菱草を一輪手折って髪に挿してくれた。ペンを握る痕のできた硬い指先で慎重に花を選んで折り取る様に、髪に触れる瞬間の小さな震えに、私は心地の良い安心を覚えた。ああ、私はこの人と生きていくのだ、と理由もなく思った。
 ぼうっとして見えるのは言葉を慎重に選ぶ人だからだ。人と真っ直ぐ目を合わせられないのは、威圧的な態度が苦手だからだ。そんな旦那様のいい妻になれたらと思う。時間をかけて、いい夫婦になっていけたらと思う。

 私にはかつて、他にお慕いしている人がいた。それは決して叶わぬ恋だった。恋とも呼べぬ前に消えた未来だったのかもしれない。
 今は旦那様を想う気持ちが一番にある。その心に嘘偽りはない。けれど、その人のことをもう何とも思っていないと言ったら嘘になる。これから結婚するのに何を言うか、ふしだらな、と思われても仕方がないだろう。だからこの気持ちはこの先誰に話すつもりもないし、思い出そうとすることもない。
 私がお慕いしていた人は私ひとりを選んでくれることはなかった。私だけでなく、誰のことも選ばなかった。なぜならその人は皆にとっての存在であり続けることを望んだからだ。
 その人は町の皆に先生と呼ばれ慕われていた。


 

 先生に出会ったのは、私が五つの時だ。先生……尤も出会った頃はまだ先生ではなかったわけだけれど、今となってはそう呼ぶのが相応しいから先生とさせてもらう。
 海街から届く荷物の中継ぎをしていた先生の家と、昔ながらの茶屋を営む私の家は商的なやりとりが多く、私達は小学校に上がるよりも先に出会っていた。先生は私より三歳年上で、兄弟のいなかった私は先生を実の兄のように思っていつも後ろをちょこちょことついていっていた。先生の弟、直次さんと私が同い年だったから、私達は一緒に育ってきたのだ。
 父が仕事で先生の家に出向くときに一緒についていって、商談がまとまるまでの間に遊んでもらうことが多かった。先生はいつも家にいた。生まれつきひどく身体が弱かったからあまり外出できなかったのだけれど、幼い私はそんなことはつゆ知らず、先生はいつも家にいて、家に行けば会える、ただそれだけのことだと思っていた。
 私は先生の家が好きだった。特に先生の部屋から縁側続きの、手を伸ばせばすぐに垣根に届く小さな庭が好きだった。年中程良く手入れがされていて、季節ごとに様々な花が咲いていた。
 ねえ、あのお花はなんていうの。私が聞けば、先生はいつもその名前を教えてくれた。たまにわからないものがあると、大人が使う立派な植物図鑑をどこからか引っ張り出してきて、暖かな縁側に広げて一緒に答え探しをした。私はまだ文字が読めなかったから、代わりに先生がみんな読んでくれた。先生に読んでほしくて、私は知らない植物を見つけるといつも先生のところに持っていった。

 先生に特別な思いを抱くようになったのはいつからだろうか。
 一度だけ、先生達兄弟と一緒に夏祭りに行ったことがある。先生が師範学校に進学する前の年のことだ。これは私の憶測に過ぎないのだけれど、先生は進学したら最後、故郷に戻るつもりはなかったのだろうと思う。あの夏にはもう進学することを決めていて、きっと最後の思い出にと誘ってくれたのだ。
 寺へと続く緩やかな坂道を登っていくと、木々に隠れた先から宵宮の祭囃子が聞こえてくる。普段ならば家に帰って母の手伝いをしている時間だが、今日だけは特別だ。
 祭囃子に誘われて、直次が先生の手をすり抜けてぱっと駆け出す。追いかけようと歩を早めた先生だったが、すぐに軽い咳払いとともに立ち止まった。
 大丈夫、と私は先生を見上げる。私の手をしっかりと握ったまま、先生はごめんね、平気、と笑っていた。つい数日前まで夏風邪をひいて寝込んでいて、まだ完全には治っていないのか、緩い坂道を登るだけで息を切らしている。夏物の薄い着物から覗く白い首筋に汗が一筋伝うのを、何故か見てはいけないもののように思って慌てて目を逸らした。
 兄さん、本堂の裏からならよく見えそうだよ。先に行った直次が手招きしている。ようやく追いついた私達の前で、直次は本堂の裏手の斜面を木々を足場に軽々とよじ登っていった。
……怖い?」
 思わず立ち止まった私に、先生は気遣うように尋ねた。
 私はぶんぶんと首を振った。怖いわけではなかった。ただ、折角の浴衣の裾を汚してしまいそうで尻込みしたのだ。彼の手前、はしたない真似をしたくないというませた思いも若干あった。
「待っていて」
 先生は一度私の手を離すと、背丈より少し高いところに伸びていた握りやすそうな木の枝を支えにして斜面に片足をかけた。
「おいで。大丈夫、ちゃんと支えるから」
 そのまま空いた手を私の方に伸ばす。なおも躊躇していると、少し大きな手のひらが私の手首をしっかりと握って、そのままぐっと引き寄せた。
 ふわりと体が浮く。思わず先生の肩にしがみつくと、どこか懐かしいにおいがした。
「直次」
 わかってると言わんばかりに、先に登った直次が上から手を伸ばす。ふたりに支えられて、私はなんとか上まで登りきった。
「ここからの方が、花火がよく見えるから」
 爪の間に入った土汚れを払いながら、先生は照れ隠しのように笑った。私の鼓動は早鐘のように跳ねたまま、たった今しがみついた肩の骨のしっかりとした感触と柔らかなにおいをいつまでも反響させていた。

 そう、あれがきっと、私の抱いた初めての恋心だった。
 次の春には、先生は東京の師範学校へと進学して町を出ていった。寂しいと思う以外に、色々なことを考えた。彼は東京でどんな暮らしをしているのだろう、どんな仲間といて、どんな勉強をしどんな未来を夢に見て――いつかこの町に戻ってきてくれるのだろうか。その時どんな大人になっているのだろうか。私のことなど、すっかり忘れてしまうだろうか。
 それから僅か数年後、私の想像とは裏腹に、先生は都会での慣れない生活に身体を壊し教師の職を辞して帰ってきた。数年ぶりに見た先生はひどくささくれた気配を纏っていた。かつての柔らかなにおいを失い、瞳に諦めと死の影を浮かべた彼に、私は怖くて近寄れなかった。同じ人だと思えなかった。数年でそれほどまでに彼を変えてしまった何かに怯えた。
 久々に話したいと思った。けれどどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。幼い頃はあんなに軽々しく潜れた垣根の向こうを窺うことすら勇気が要った。

 先生は強い人だった。時間はかかったけれどもう一度ひとりで立ち上がって、先生と呼ばれることを自ら再び選び取った。
 いつか支えてもらったお返しに、今度は私が手を差し伸べたかった。けれど私にできることは何もなかった。いつまでたっても私は幼馴染の茶屋の娘のまま、先生の特別にはなれなかった。いつかと同じ、超えられない斜面を前に立ち竦んだままで。
 先生が帰郷してきてから何度目かの春に、あるひとりの旅人が町を訪れた。彼が来てから、先生は以前よりも気負わない柔らかな表情を見せるようになった。ようやく少し誰かに寄りかかる術を覚えて肩の力を抜いた先生のことを、私は日増しに慕うようになっていた。
 とっくに知っていた。先生の胸に巣食った病が、その命をじきに食い尽くしてしまうであろうことを。知っていて、最後まで傍にいたいと思った。
 想いを伝えきることはできなかった。先生の覚悟の方が、私のものより何倍も重かった。先生は優しくて、それゆえ孤独で揺らがなかった。先生に手を伸ばしてもらえなければ、私はその体に触れることすら叶わないと知ってしまった。
 私はついぞ先生のことを「先生」と以外呼ばなかった。それが最たる証拠だ。


 

 祝言の支度を終えた私がやってくるのを、待っている人がいる。
 きっと今日も不器用な想いをひとつひとつゆっくりと言葉にして、仕事のしすぎで硬くなった指先で恐る恐る私の髪に触れて、そうしてこの先の長い年月を共に重ねていくのだ。
 ここを一歩出れば、私はもう花嫁だ。桜色の前掛けをして、夕暮れの光の中で先生を待つ茶屋の娘はもういない。決して忘れることはないけれど、思い出すこともない。
「仁美さん。そろそろ、行きましょうか」
 はい、と私は答える。
 旦那様に贈られた花菱草の簪が、今日からの私の道標だ。