冷たい消毒液のにおいがする。
「気がつきましたか」
知っている声だ。しかし浮かび上がったばかりの紗のかかった思考では、それが誰であるかまでたどり着けなかった。
右手首に何かが触れている。そっと見下ろすと、脈をとる池沢の視線にぶつかった。
「今しがた夜が明けたところですよ」
気分はどうですか。聞かれて初めて、意識の明滅するような息苦しさが随分と薄れていることに気がつく。消毒液のにおいがするということは、ここは家ではなく池沢医院なのだろう。
楽になりました、と答えようと口を開いたが、言葉は音にならずにはくはくと唇を震わせただけだった。
「強い薬を使ったので、一時的に声が出ないだけです」
あと半刻もすれば戻りますよ。池沢は安心させるように笑いかけた。
「ひどく雨が降っていたことは覚えていますか」
頷くと池沢は、
「街道の様子を見に行った何人かが怪我をしたらしくて、これから往診に出向かなければならなくて」
気にせず行ってきてください、と目で伝える。池沢はため息交じりに首を振った。
「強い薬を使った直後なので、ひとりきりにさせたくないのですが。……やむを得ません」
なるべく早く戻ります。いいですか。そこから動かないで、安静にしていてくださいよ。念を押す池沢に、子どもじゃあるまいし、と苦笑を返した。もういい歳だというのに、池沢先生からしてみれば私はいつまでも幼いままなのだろうか。
気がつけばまた時間が飛んでいた。あれからしばらく眠っていたらしい。胸に違和感は残ったままだが、今度の目覚めは穏やかなものだった。
玄関の方から物音と声が聞こえる。医院に誰か訪ねてきたのだ。
どうやら玄関先に現れた人物はこのあたりの人間ではないらしい。町の人間ならば、このあたりにひとつきりの慣れ親しんだ医院を訪ねるのに畏まってごめんください、などとは言わないからだ。姿が見えなければ往診に出ているのだろうと勝手に判断してまたにするか、簡単な怪我の手当てくらいならば包帯やガーゼを拝借して勝手に済ませてしまう。
玄関先の気配はまだ立ち去っていない。何度か声を上げているのだから、余程困っているのだろう。
せめて池沢先生がまだ往診から戻らないことだけでも伝えてやりたくて、念押しされたことからは目を逸らして寝台からそっと足を下ろしてみた。体重をかけて立ち上がった瞬間少しふわふわとしたが、気分の悪さや貧血を起こす前触れの寒さは感じない。大丈夫そうだと判断して、処置室を抜け、待合室へと続くドアを開けた。
受付の前で所在無さげに立っていたのは背の高い男だった。出で立ちを見るに、旅人だろうか。
「池沢先生に御用ですか? すみません、先生は今往診に出ていまして……」
それは雨上がりの、陽春の出会いであった。