白雲の声 - 1/2

 終点駅はごった返していた。
 列車の吐き出した蒸気でうっすらと靄がかかっている。人も物も忙しなく動いている中で私はひとり、流れから弾き出されたように立ち止まっていた。
 これから都会へ出稼ぎに行くらしい男達が、くたびれた鞄一つ片手にぶら下げて並んでいる。彼等とすれ違うように列車から降りてきた軍服姿の壮年の男は、家族の姿を認めるや否や小走りに駆け寄ると、強面をくしゃくしゃにして固く抱擁を交わした。歩廊の隅では年若い恋人達が言葉少なに暫しの別れを惜しんでいた。きびきびと立ち働く巡回中の警察官、対照的にのんびりとした弁当売りの声、頭上をけたたましく通り過ぎていく発車を告げるベル。小さな駅でせせこましく人と音が混ざり合っている光景にいつも心が浮き立ってしまうのは、田舎生まれの性だろうか。
 人を探していた。帰郷するという便りが届いたのはつい数日前のことで、記された予定日は間近に迫っていた。急に日取りを決めたのか、手紙を出すのが遅れたのかはわからなかったが、とにかくそれは突然の知らせだった。
 進学のために彼が単身東京へ旅立ってからもう三年になる。あまり長く休暇を取るとその日数分の奨学金が止められるという理由で、正月に顔を見せる他には帰ってこなかった。家族には時折便りを出していたようだが、私にはやはり年始の挨拶だけ。思えば私も下宿暮らしの数年間は、故郷へ手紙を出すことなど綺麗さっぱり忘れていたものだ。不安に思わないわけではなかったが、便りがないのは息災である証拠と考えるようにしていた。
 なぜ帰郷の報せだけは私のところにも届いたのか。答えは手紙の中にあった。体調を崩し、仕事が続けられなくなったので療養のため帰郷することにした――事情だけが淡々と並べられた文章の裏に、儚い諦念を見た気がした。整った文字の向こうに、言葉にならない痛みが滲んでいるように思えた。

 到着を告げるベルが鳴り響く。軋むブレーキ音が足元を揺らし、薄灰色の煙をかき分けて、日の暮れかけた駅に列車がゆっくりと入ってきた。この日最後の東京からの直通便だった。
 軍人や学生が真っ先に降りていき、重そうな荷物を抱えた人や足取りの緩慢な老人が後に続く。改札へ向かう人波の中に探している背恰好が見えやしないかとしばらく目を凝らしていたが、段々と人の姿は減っていった。車両の点検にきた整備士達が出入りを始める頃には諦めがよぎり始めていた。
 もしかしたら何か不都合があって、今日帰るのはやめたのかもしれない。世話になった人との別れを惜しむうちに列車に乗り遅れたのかもしれない。出迎え不要と手紙にあったのは、日取りを急に変える可能性があったからかもしれない――理由はいくらでも思いついた。そもそも迎えにいくと電報を打ったわけでもなし、運良く会える可能性の方が低いのだ。
 車掌が一番後ろの出入り口から降りていく頃には、ほとんどの客は改札の向こうへと消えていた。閑散とした駅は急に寒々しくなった。仮初めの春が人波とともに掃き出されていって、しぶとい冬が居場所を取り戻したようだった。
 これ以上の長居は無用か。踵を返しかけたとき、車庫へと入る準備を始めた列車から一人の客が追い立てられるように降りてきた。荷物は片手持ちの鞄ひとつきり。それでも重そうに見えたのは、降りるときに少し足下をふらつかせたからだ。春先にしては暑そうな冬羽織と襟巻に顔を埋めているせいでよくわからないが、羽織の着方と背丈からして恐らく若い男だろう。
 男はそのままふらふらと歩廊の中程まで歩くと、柱の側で力が抜けたようにしゃがみこんでしまった。荷物を持たない方の手を柱に縋らせ、背を丸めて咳き込んでいる。
「あ……
 気がつけば足が向かっていた。医者としての咄嗟の行動だった。長旅で具合を悪くしたのだろうか、申し訳程度の気つけ薬しか持っていないがどうしたものか――考えながら駆け寄ろうとして、はたと気がついた。

……啓司君?」
 確信はあったが声に疑問が残った。記憶の中の背格好よりも随分と大きくなっていたからだ。つい少年の姿を探していたことに気がついた。そうだ、あれから三年も経つのだ。すでに三十も超えた私とは違い、年若い彼にとっての三年は計り知れないほどに大きい。
 男は顔を上げた。咳き込んで少し赤くなった目が驚いたように見開かれる。
「池沢、先生」
 不安と安堵がない交ぜになった表情は、記憶の中のものとさほど変わりない。やはり啓司だった。
「出迎え不要と……書きましたのに」
「直次君が行くだろうと思っていたのですが、生憎彼は今日仕事で町を離れていましてね。便りを受け取ったのに誰も出迎えにいかないというのは寂しい。それで私が出向いた次第です」
 大きくなったなとか、久しく故郷の地を踏んだ感想はどうだいとか、そういう会話から数年間の距離を埋めていこうと思っていたのに。いざ再会の時を迎えて口をついて出たのは、あまりに当たり障りのない言葉だった。
「わざわざ、ありがとうございます……寒い中、随分待ったでしょう……っ、けほッ
 啓司は止まらない細い咳に顔を背け、襟巻に口元を埋めて危うい呼吸を繰り返している。
「大丈夫かい。車内の空気がよくないせいで、発作を起こしたんだろう」
 久々に触れた背は骨の形をなぞれるほどに痩せていた。私の知らない三年の重みが、彼の弱い身体をすっかり削り奪ってしまったようだった。
「ッけほ、キひゅは、はぁっ、は……――すぐに私だと、わからなかったでしょう……? 東京にいるうちに、背が伸びたから」
……ああ、そうだね。わからなかったよ、驚いた」
 わからなかったのは背格好のせいだけではない。もっと満ち足りた、人並みに若者らしい生活をしている姿を無意識に想像していたからだ。こんなに痩せて、痛々しい姿になっているだなんて夢にも思わなかった。いや、思いたくなかったのだ。
 これでは何をしに町を出たのかわからない。まるで命をすり減らしに行ったようではないか。そんなつもりはなくても、彼にとってそれは命を削る行為であったということ。
 そして、その背を押したのは、他でもない私なのだ。
「歩けますか」
「大丈夫、です……長旅で、少し……ッ、ぜぅっ……すこし、疲れてしまっただけで……
 苦しい息の下、大丈夫ですからと手を拒む。以前の彼なら素直に差し出された手を取っただろう。そうできなくなってしまったのは、誤魔化せないとわかっていても気丈にあらねばならない日々に身を置いてきたからだ。教師という立場がどれほどの重責を背負うものなのか私にはわからない。しかし彼にとってそれは、身体を壊すほどに重かったということ。
 せめて荷物だけでも持たせてくれと言うと、啓司はようやく素直に従った。
 荷物は呆気ないほどに軽かった。