暮れかかる夕日に細かな土埃が反射している。光の加減と時間の悪戯か、見慣れた景色が今日は少し透明に見えた。
光の粒をかき混ぜて、小さな靴がふたつ通り過ぎていく。頭ひとつ分背の高い影が前を行き、少し後ろを幼い影が小走りに追いかける。当たり前のように差し出された手と、追いついてしっかりと握り返した手。夕を告げる遠い鐘の音に、ふたりは揃って空を見上げていた。
「……懐かしいな」
手をつないで家へと向かう兄弟の背中に自然と重ねていたのは、かつての自分と兄の姿。はっきりとした記憶があるわけではない。それでもこんな日が自分達にもあったのだと、体のどこか深いところが朧気に覚えていた。
「ふふ、私もちょうど思い出していました」
「兄さんも?」
独り言のつもりで零した言葉に返事があったので驚いた。隣に立つ兄は西日に目を細めて穏やかに空を見上げている。
「ちょうど年の頃も同じくらいでしょうか」
覚えていますか? 兄の問いかけに僕は首を横に振った。覚えていると言えるほど確かではないからだ。
「まだ幼かったから、なんとも……けれど、兄さんと手をつないで帰ったことはぼんやりと覚えているような」
兄は十五歳、僕は十二歳だった。遠い北方の国との戦争による恐慌などつゆ知らず、子どもの足でも端から端まで半日かからない田舎町が世界の全てだった頃。
これは今からちょうど十年前の、僕と兄の話だ。
朝は色々な音がする。
引き戸が開いたり閉まったりする気配。せェの、の短い掛け声と、重そうなものが地面に置かれる音。快活な笑い声、話し声、土間で煮炊きをする音。そのどれか、もしくは様々な気配が混ざり合った全部に夢の世界からそっと押し出されて、僕は目を覚ます。
うちは荷捌きの仕事をしている。父はよく荷捌きじゃない、貿易商だ、なんて気取って言うけれど、そんな大層なものではない。港町から峠越えの道を通って運ばれて、うちで小分けにされてさらに奥地へ、または近くの鉄道駅へ運ばれて、どこか知らない遠くの大きな街へ。前日に船で届いた舶来品や明け方に水揚げされた魚なんかは朝一番、日の出と同じ頃には届く。だからうちの朝は近所のどの家よりも早い。そんな生活が物心ついた頃からいつもすぐそばにあった。
僕が目を覚ます時間が、家の中が一番忙しい時間だ。父は荷運びの男達と届いた荷物をあっちへこっちへ積み替えたり解いたり、母は奉公人の女達と賄い飯の準備で忙しい。
僕にできるのは働く大人達の邪魔にならないようにひとりで学校へ行く支度をして、自分の朝食をよそって居間の端っこで食べることだけだ。昼の簡単な仕事は時々手伝わせてもらえるようになったけれど、朝の慌ただしい時間はまだ許してもらえない。
「よう坊主、おはようさん! 隣いいか?」
湯気のたった器に箸をつけようとした瞬間、聞き慣れた声が耳に届く。どうぞ、と言う前にもうどかりと隣に腰を下ろした男は、港町からやってくる荷運びの一団の長だった。
「おはようございます。……今日も大盛りだね」
「丈夫な肉体ありきの仕事だからな」
運び人の証だ、と自慢げに袖を捲ってみせる鍛え上げた肉体は大人数が忙しく立ち動く中では窮屈なのか、いつも身を縮めるようにして居間に上がり込んでくる。運んできた食糧の全てをここで平らげてしまっているのではないかと思うくらいに盛られた米を見て、直次はもうそれだけでお腹がいっぱいになってしまいそうな気分になった。
「坊主も大きくなったら一緒にやるか?」
「やりたい! ……でも僕、あまり背が伸びなくて。ちびじゃ足手まといかな」
「なぁに、心配すんな。まだ十二歳だっけか? これからどんどん伸びるぞ、びっくりするくらいにな。……おぅい、おかみさん! 坊主にもっと食わしてやれよ! きっと若竹みたいに伸びるぜ」
やめとくれ、これ以上米が減ったら算盤が持てなくなっちまうよ! すかさず返された母の声に、彼はわっはっはと豪快に笑った。あれだけ食べないと彼のようにはなれないのだとしたら、僕はそこまでじゃなくてもいいかな。ふと目を離した隙に煮物がひとつ増やされた皿を横目に、直次はそっとため息をついた。
「坊主、兄貴は元気か」
大盛りの米を驚異的な速さで崩しにかかる片手間に、彼は僕に尋ねる。
「兄さん? ……うん、最近はいいみたい」
三つ年上の兄は身体が弱い。肺が人よりも敏感で、埃や強い匂いや少しの運動で咳が止まらなくなってしまうのだと両親は教えてくれた。
「暖かくなってきたから、少し楽になったんだって」
「ま、そう心配しなくていいと思うよ。いいもん食ってよく寝て、あとは成長してしまえばどうにかなるってもんだ。坊主の背が伸びる頃には兄貴の身体も快くなるだろうよ」
「うん。……ありがと」
兄に無理をさせてはいけない。それは幼い頃から何度も繰り返し聞かされてきたことで、今更それを不満にも疑問にも思うことはない。けれど時々、どうして他の兄弟みたいに一緒に遊べないのか、どうして周りの皆が兄のことをどこか遠巻きにするのかわからなくなることはあった。
可哀想に、お兄さんの分まで大変ね、と言われることがある。僕も兄さんも可哀想なんかじゃないとその度に思う。僕は家の仕事を手伝うのが好きだし、兄さんは家の手伝いはできないけれど勉強は人一倍できる。誰よりも優しくて強い、自慢の兄だ。それでもやっぱり僕たちは可哀想なんだろうか。兄が家の仕事を継いで弟がそれを支える、それができないだけで可哀想なんだろうか。