初桜のころに - 1/2

 前を歩く老医師の背を追いかける。もう六十を越えているというのにその足取りはいまだ力強く、歩みも早い。
 診察の邪魔になるから帰れ――こうして後を追いかける度、昔はよく追い返されたものだった。それでもどうしても医者になりたくて、彼の下で学びたくて何度邪魔だと言われようとくっついていった結果、いつからか彼は何も言わなくなった。
 本気で医者になる気があるなら俺が金を出してやる――僕はその話に飛びついた。与えられたチャンスを逃すまいと東京で二年間必死で勉強し、この春に試験に合格してようやく故郷の町に帰ってきた。
 老医師はもう邪魔だから帰れとは言わない。ずっと持っていると腕が痺れてくるほどに重い老医師の往診鞄を代わりに持つことももうなく、これからは自分の分を自分で持って歩くのだ。ようやく自分も一人の医者になったのだ――そんな思いを胸に、桜の蕾が綻びはじめた道を大通りへ向けて下っていく。

 今日最後の往診先は大通りの外れの家だった。
「やあ、遅くなってすまない」
 何かの商店なのか、間口の広いつくりをした家に老医師は慣れた様子で入っていく。慌てて後を追って入ると、店の中は沢山の物であふれかえっていた。
 店内には麻糸の束や麻布、衣類品や竹製の籠などがところ狭しと並べられている。よく見るとそれらにはひとつひとつ町の名前や日付の書いた紙がつけられていた。なるほど、ここは商店ではなく輸送品を仕分けするところで、これらは全て輸送されるのを待っている品物なのだろう――池沢は改めてぐるりと薄暗い店内を見回してみた。隅の方には何に使うのかさえもよくわからない、池沢にはガラクタのようにしか見えないものや、舶来と思われる機械部品や書物などが山のように積み重なっている。おや、あそこで光っているものは何だろう、見たところ舶来の首飾りか飾りボタンか――
「こらしょう、お前さんは奥へ来なきゃだめだろう」
 老医師が自分を呼ぶ声にはっと我に返る。そうだった、自分はもう鬱陶しい付き人ではなく、ここへ医者としてきたのだ。見慣れぬ物ばかりの店内でうっかり自分の仕事を忘れかけていた池沢は、その声にあわてて奥へと向かう。

「遅い」
 奥の和室に入った池沢に、老医師は顔を向けることもなくぴしゃりと言い放つ。すみません、と小さく謝りながら少し後ろに座ると、ようやく布団の上に半身を起こした患者の姿が見えた。
 患者は子どもだった。六歳くらいに見えるその少年は老医師が脈をとり、胸を聴診する間にも泣いたりすることなく大人しくじっとしていた。
「ほら昌、もっと側にきて挨拶せんか」
 ひととおり診察を終えた老医師は、後ろで石のようにじっと座って見ているばかりだった池沢を小突いた。池沢はおずおずと前に進み出た。
「初めまして、こんにちは。お名前はなんていうんだい」
 黒目がちの子どもらしい目がまっすぐに池沢を見上げていた。おっかなびっくり話しかけた池沢を見て、少年は少し不安そうな顔をした。
「けいし……ひらの、けいし、です」
「啓司くんか、いい名前だね。僕は池沢昌平といいます」
 池沢の緊張がうつったかのように固い顔で名乗った少年――啓司に優しく笑ってみせたつもりだったが、どうやら少し引きつっていたらしい。隣で見ていた老医師はやれやれとばかりにため息をついた。
「啓司くん、彼は新しいお医者だよ。東京でこれまでずっと学校に通っていてこの春に町に戻ってきたばかりの、なりたてぴかぴかの先生だ」
 話の続かない池沢に見かねて、老医師が助け舟を出した。新しい医者だとわかって啓司はようやく少し安心したのか、ぎこちない笑みを見せる。
「昌、俺はここの主人と話をしてくるから、彼を頼むよ。――これから主治医としてやっていくんだ、仲良くするように」
「はい。……って、え、主治医って、僕がですか!」
 しっかりやれよとばかりに背を叩くと、老医師は部屋の入り口で待っていたこの家の主人らしき人物とともにどこかへ行ってしまった。後には呆気にとられて言葉も出ない池沢と、布団の上に座ったまま不安そうにそわそわとする啓司だけが残された。