三 蛙始鳴 - 1/3

 紙と鉛筆の音だけが落ちる教室に、わっと賑やかな声が舞い込んだ。
 さっぱりと開け放った窓の外から、涼やかな風に乗って楽しそうな歓声が聞こえてくる。まるで喜劇のステージや手品でも見ているかのような、授業中とは思えない明るい笑い声だった。
 熱心に足し引きの計算に取り組んでいた子ども達も、なんだろう? と不思議そうに窓の外を見た。窓際の席の何人かは、椅子から身を乗り出してなんとか外の様子を探ろうとしている。
「さあ、この頁の問題だけ、解いてしまいましょう」
 早く終わった人には、黒板の問題もやってもらいましょうか。集中力を削がれた子ども達に課題の続きを促しながら、私もちらりと窓の外を意識していた。――正確には、歓声の上がる隣の教室のことを。
 どうしたらあんな風に、楽しげな授業ができるのだろう。どんな話し方をしたら、あんなにも子ども達の心を掴めるのだろう。
 隣は三年生の教室だ。ここの担任の存在が、以前からずっと気になっていた。
 三年生を受け持つ教師――鵜飼うかい大樹だいじゅは、聞くところによれば私の次に年若い教師で、高等師範学校を卒業後、自ら志願してこの学校にやってきたという。
 高師卒ならいくらでも高給取りになれるのに、好き好んで薄給の小学校教員になった変わり者、誰の指図も意見も聞きやしないとんだ偏屈者――鵜飼のことをそれとなく他の教師に尋ねてみると、大抵そんな答えばかりが返ってきた。あからさまに彼のことを目の敵にしている教師も少なからずいるようで、出処のわからない噂ばかりが朧気な彼の印象として蓄積されていった。噂話を鵜呑みにする気はないのだが、当の本人と話したことがほとんどないので、自分で確かめる機会も中々訪れないでいた。
 鵜飼は滅多に教員室に現れなかった。机はあり、申し訳程度に私物は置かれているのだが、持出禁の資料を閲覧しにくる姿くらいしか見たことがない。そのため机はほとんど使われておらず、隣の席の崩れかかった書類が半ばまで領土侵入している。
 鵜飼は他の教師との関わりを避けているようだった。彼の授業のやり方について、尋ねてみる機会を掴めないでいた。

 この日、一年生は午前中で授業が終わりだった。
 終鈴が鳴ると、子ども達は我先にと帰り仕度を済ませ、先生さようなら! と挨拶もそこそこに教室を飛び出していく。さようなら、帰り道には気をつけて、と返しながら、黒板を綺麗にし、名簿と教科書を抱えて教室を出た。
 見れば、ちょうど隣の教室から鵜飼が出てきたところだった。六尺近くはありそうな長身は、子ども達と混ざると一際大きく見える。昇降口を目指す子ども達を器用に避けながら、廊下は走るなよとのんびり声をかけていた。
「すみません、私が指導すべきところを」
 代わりに言わせてしまったことを謝ろうと声をかけると、鵜飼はああ、と面倒臭そうに頭を掻いた。
「別に、気づいた奴が言えばいいだけだろ」
 それじゃあな、と鵜飼は背を向けた。ほつれかかった背広の裾に白墨の粉がついている。
「あの、一度授業を見学させていただけませんか?」
 使い古して丸くなった革靴の底が、掠れた音を立てて止まった。
 突然授業を見せてくれだなんて、気を悪くしただろうか――考え込む素振りを見せた背中に、やはり過ぎた申し出だったと謝ろうとして、
「別にいいぜ」
 午後一、空いてんだろ。来いよ。鵜飼は振り返りもせず答えると、右足を軽く引き摺るような癖のある歩き方で去っていった。
 拍子抜けする思いがした。気難しいとか、気に入らないことがあるとすぐ激昂するだとか、そんな噂ばかり聞いていたが、やはり相当に尾ひれのついた話だったらしい。