二 葭始生 - 1/2

 最初の春は飛ぶように過ぎていく。春霞のなかで手探りするうちに、四月が終わろうとしていた。
「今日から新しいところをやります」
 子ども達は揃ってはいと元気に答えた。
 午前中最後の授業は国語だった。この時間はいつもどことなくゆったりとした、心が棘立たない空気が流れているから、新しい単元を封切るのに向いている。子ども達の集中力としては朝一番や中休み後の方が高いのだが、新しいことを始めるのに必要なのは、集中力よりも穏やかな心と落ち着いた空気ではないかと感じていた。

 教科書の新しいところに入るときは、まず声に出して読ませることにしていた。
 最初に読みたい人は、と訊けば、大抵決まった数人が手を挙げる。自信のある子どもに先陣を切ってもらって、あとは文節や内容に合わせて隣の者へ、そのまた隣の者へと繋げていった。
 多少の得意不得意はあれど、まだ小学校の全過程のひと月分しか進んでいないので、子ども達の能力に差はほとんどなかった。読むのが得意な子どもでもつっかえることはあるし、多かれ少なかれ微妙に間違えていたりする。その都度止めていたらきりがないし、何を読んでいるのかわからなくなってしまうので、最後まで辿り着くまでは口を挟まないことにしていた。修正できないほど迷子になってしまったり、読めないことに困り果てていたりするときだけ、少し手を貸した。それくらいの力添えだけで、案外最後まで読み切れるものなのだ。それから間違えたところ、間違えやすいところをさらっていく。
「先生、どうして声に出して読むんですか」
 意味を知らなそうな言葉について解説しようと口を開きかけたところで、その質問は飛んできた。
「学校で教科書を読んだと兄に言ったら、学校は書き取りをするところだと言われました」
 窓際の一番前の席に座った少女が私を真っ直ぐに見ていた。細田さいだというこの少女は、どんな科目でも最初に手を挙げる子どものうちのひとりだった。入学前に一通りの仮名は習ってきたのか、書き取りの授業となるといつも少しつまらなそうにしている。
訊かれたことには真っ先に答えるが、自ら質問をしてくることはこれまでなかった。
「わたしもおかあさんに言われました。教科書を声に出して読んでくる宿題なんて、聞いたこともないって」
「まだ全部いろはを覚えてないって言ったら、おとっちゃんに叱られた」
 発言に触発されて、他の子どももめいめいに声をあげ始めた。
 言葉にできなかっただけで、こんなにも色々思うところがあったのか――まだ一年生なのだから授業の意味までは説明しなくてもいいかと思っていたが、なるほど意味がわからなければ、やり甲斐も生まれてこない。
「みなさんが毎日書き取りを頑張っている仮名やいろはは、なんですか」
 質問の意味を測りかねて、子ども達はきょとんとした顔をした。
「いろはは、いろはだよ」
「『い』は犬の『い』、『ろ』は廊下の『ろ』、『は』は……」

「……日本語?」
 珍しく自信のなさそうにおずおずと声を発した細田に、私はひとつ頷いてみせた。
「そう、日本語、つまりは言葉なんです。言葉は書き表すよりも前に、まずは人と人が話して、言いたいことを伝え合うために生まれました」
 教科書を閉じた私を見て、子ども達は驚いた顔をした。
 子ども達には、これまで教科書に沿った授業だけをしてきた。一年生なのだから、ある程度の指針があった方が混乱を招かないし、理解度の把握もしやすい。しかしそれは教師側の都合であって、子ども達の中に生じた疑問や、その時々の興味とは必ずしも一致しない――そう、今回のように。
「書き取りができるようになるのは、勿論大切なことです。けれどみなさんにはさらにその先、言葉を伝えられる人になってほしいのです。そこに書かれた文字を書き写すことより、自分の中から生まれる言葉で表現できることの方が、大切だと思っています」
 一年生に伝える概念としては、少々難しいことはわかっていた。
 授業で伝えること全てを完璧に理解してもらおうとは思わない。今日私が話したことは、明日にはすっかり忘れられているかもしれない。それでも構わないと思った。いつか子ども達の時が満ちてきたときに、ほんの一欠片でも思い出してもらえたなら、それが子ども達の未来を開く力になるのなら、それで充分だった。
「声に出して読むと、そこに書かれている文字に繋がりが見えてきます。弱く繋がっているところと強く繋がっているところ、似ている意味のところ、反対のことを言っているところ……言葉の感覚が見えてきます。つっかえることなく読めるようになったとき、そこに書かれた文字はみなさんの中で言葉に変わるんです」
 子ども達は相変わらず驚いたような顔でこちらをじっと見ている。やはり少し難しかったか、と内心苦笑しながらも、授業を止めて質問に答えたことに意味はあったと思っていた。
 午前の授業を終える鐘が聞こえてくる。いつもなら終鈴を聞くとすぐにざわざわと片付けを始める子ども達だが、神妙な気配が抜けきらないこの日ばかりは、どことなく静かだった。