十二 三月拾二日 - 1/2

今宵の星が、きっといつまでも僕達を守ってくれるだろう。


 卒業試験の少し前に平野はなんとか退院できた。風の噂ではもう大丈夫だから退院させてくれと本人が無理に許可を取ったとも聞いたが、聞かなかったことにした。
 結局実習後の授業にはほとんど出られなかったが、平素の成績と事情を考慮され、卒業試験で平均以上の成績を納めれば卒業できることとなった。そうと決まってからは毎日が勉強合宿となった。ハズレ角の総力を結して試験勉強に励んだ。思えばこれが今まで生きてきた中で一番楽しい勉強だったかもしれない。
 試験の日はあっという間に訪れた。天が味方をしたのかその日は晴天で、冬晴れにしては寒すぎることもなく風も穏やかだった。筆記音だけが満ちる午後の教室で、ふと問題用紙から顔を上げると窓の外に逆さ虹が見えた。卒業のかかった試験中でさえなければ隣の席の平野に教えてやるのに、と少し残念に思った。

「お疲れ様でした。これは僕からの労い品です」
 全ての試験が終わった夕方、原島が街で人数分の汁粉を買ってきて、皆に振舞ってくれた。少し冷めかけの汁粉は柔らかな甘さで、試験で疲れた身体に程よく沁みた。
「おつかれさん。やっと終わったなー」
 あとは天に祈るだけや、と満足げに桝谷が笑う。平野とは違い、サボり癖というどうしようもない理由で出席日数に王手をかけていた桝谷だが、その表情を見るに試験は上手くいったのだろう。
「簡単だったな」
「播本、そういうところが嫌われる理由なんやで?」
「本当のことを言ったまでだ」
 対する播本は余裕の表情で、相変わらず嫌味を言う。しかしその顔は言葉と違ってどこか晴れやかだった。
「おれ、落第したらどうしよう……」
「大丈夫やって、あんなに勉強したやろ? おまけに昨日やったとこが運良く試験に出たんや、これはもう及第間違いなしやって」
 本気で不安そうな野宮に、桝谷は案ずるなと肩を叩いた。野宮は実際かなりぎりぎりなところだろうが、まあ大丈夫だろう。なんだかんだ言って、彼は本当に試験を落としたことはない。
「祈りましょう。……僕も正直、不安です」
「啓、お疲れ様。大丈夫、みんな揃って卒業できるよ」
 試験中に大きな発作を起こしかねないことだけが唯一の不安要素だった平野だが、ほぼ万全の状態で受けられたのだから、間違いなく大丈夫だろう。必要以上に心配性な友に、本江は笑って労いの言葉をかけた。
「試験も終わって、いよいよ卒業するんやね」
 桝谷の寂しげな呟きが、ぽつりと部屋に落ちた。試験の終わった興奮が、すっと冷めていった。
「そうですね。あと半月で、卒業です」
 寂しさが朔風のように吹き抜けていった。この部屋で過ごす時間も、あと僅かだ。

「なあ、今から星を見にいこう!」
 野宮が急に立ち上がった。空になった汁粉の皿を握り潰さんばかりに振り上げ、きらきらと期待のこもった目をして皆を見る。
「藪から棒になんや」
「今日は流星群なんだって!」
「流星群?」
「その……サキさんが、教えてくれたんだ」
 彼女ね、星を見るのが好きなんだって。野宮は照れ臭そうに笑って言った。
「星を見にいくって、どこへ」
 寮の裏手ならそこそこ暗くはなるが、川の対岸の家灯りが邪魔をしそうだ。
「こっから歩いて二十分くらいのところに、いい空き地があるンだ。周りに家もないから、いいとこだと思うよ」
「完っ全に門限無視やな」
 卒業試験も終えたってのに、校則違反が原因で落第にされたら堪らん。桝谷が盛大にため息をついて、せめて校内にしておこうやと珍しく無難な意見を述べた。
「最後なンだよ!」
 それでも野宮は退こうとしない。ちょこっとだけでいいからと興奮気味に、行こう行こうと繰り返す。
「……そんなに、星が見たいんか?」
「見たい! ……もっと正直に言うと、六人みんなで、見たい」
 野宮の真剣な様子に、桝谷は少し気圧されたようだった。ばりばりと頭を掻くと、うーだのあーだのと呻きとも呟きともとれない声を発している。
「……よっしゃわかった。野宮の意見に乗った」
 桝谷の言葉に、野宮の顔がぱっと明るくなった。
「ほんとか! ほんとに、いいのか?」
「野宮クンの無茶についていくのはいつだって俺の役目やって、決まっとるやろ」
 いいから、任せとき。頼れるのか頼れないのかよくわからない無責任さで、桝谷は己の胸をひとつ叩いてニッと笑った。
「わかっているだろうが、僕はいかないからな」
「わかってて言うなや、播本。今回は拒否権はないで」
 うんざりとその場を離脱しようとした播本を、桝谷はすかさず捕まえた。
「校則違反を強要する気か? ついに頭でもおかしくなったか」
「そや、校則違反の強要や。真面目な秀才クンに罪の味を教えたろ思ってなあ……卒業したらもう二度と味わえへん味やで」
「そんなもの、一生知らなくていい」
 堅いことを言いながらも、口元は笑いを堪えるのに必死のようだった。播本は皆が揃って出かけようとすれば、なんだかんだ文句を言いながらもついてくるだろう。出会ったすぐならばあり得なかったことだが、彼も随分と丸くなったものだ。
「残るは監督生の説得というわけやけど……平野クン、ええよな?」
 おずおずと下手にお伺いを立てられた平野は、くすりと笑って言った。
「監督生としてならば、見過ごすわけにはいきません。……ですが、このハズレ角の一員としてならば」
 監督生として説得されたことは、忘れることにします。悪戯をこっそり教えてもらった兄のような目をして、平野は笑った。