十一 二月九日 - 1/2

あんな光景、もう二度と見たくないと思った。


 寒い冬の最中、それからも実習は続いた。
 後半の一か月は大分慣れてきて、一度は失いかけた自信を少しは取り戻した。この調子ならば卒業してからもなんとかやっていけるのではないかと、淡い期待に胸を膨らませたりもした。
 徐々に軌道に乗ってきた本江とは対照的に、平野は目に見えて窶れていった。無理をしすぎていると誰もが気がついていたが、彼の熱意と決心は痛いほどに伝わってきていたから、何も言えないままだった。
 彼のやり方は命を擦り減らしていくようだった。熱があっても、弱った身体が食事を受け付けずにひどく吐き戻しても、翌日の朝には必ず定刻に起きてきて実習に出かけていった。誰にも止められない気迫のようなものがあって、それが周囲をより一層躊躇わせた。
 一月末に、実習の日々はようやく終わりを告げた。しかし間髪入れずに卒業試験が迫っている。折角実習をパスしたのに卒業試験に落第しては元も子もないと、皆鬼気迫る様子で試験勉強に邁進するようになった。

「啓、ゆっくり、ゆっくり息して。吸って、吐いて……啓? 聞こえてる?」
 背を起こしてもなお呼吸の儘ならない様子を見かねて、本江は席を立った。
「ッ……っひゅ、ケほッ……だ…じょ、ぶ、きこえ、て……ッぜェ、げほッごホっ――ヒュっ、は――ッ、は――ッ……っ、はぁ…ッ゛う、ゼぅッ……」
 平野はほぼ毎日のように発作を起こすようになっていた。今までは咳の止まらないときはふらりと部屋を出て人気のないところで薬を飲み、落ち着くまで耐えていたようだが、昼も夜も慢性的な呼吸困難状態となってはそれさえ難しい。もう咳き込む体力もとっくに尽きているというのに、胸の奥底の燻りはまだ彼の身を嬲るらしかった。
 授業中もずっと辛そうで、しかし何かしてやりたいと声をかけるたびにやんわりと拒絶された。元々芯のある性格ではあったが、ここまで頑なではなかったはずだ。思うようにならない身体を抱えたままで、彼は最後までやり抜くつもりらしかった。その決意に水を差すような真似はどうしてもできなかった。

 それは二月も半ばとなった、ある寒い朝だった。限界はついに訪れた。
 前の晩も嘔吐くほどにひどく咳いていた平野は、きっとほとんど眠れていなかっただろう。おはようございます、と声をかけてきたときから顔色は真っ青で、何をどう言われようと拒絶されようと、今日こそは休んでもらわねばならないと、本江は意を決して彼を呼び止めようとした。
 声をかけられた平野は振り返り、しかし突然強い風に吹かれたようにふらりと重心を失った。いけない、と手を伸ばす暇もなく、軽い身体はその場に崩れ落ちた。
「啓!」
 本江はすぐ隣に膝をついて、蹲る背中に手をやった。薄い浴衣越しの背中はじっとりと熱い。その上、熱の籠もった身体の奥底はぜろぜろと重い軋音で満ちていた。
「す……ませ、平気……ッ」
「何が平気だ、ひどい熱だよ」
 あまりに身体を省みない友に思わず声を荒らげたくなったが、崩れ落ちたまま顔も上げられず息を継ぐ様子に、抑えた声で伝えるしかなかった。
「ね、一度こっちに座って……」
 支えてなんとか寝台に座らせるも、体勢を保つことができない。何度目かの苛烈な咳に嬲られてぐらりと横に倒れかけた身体を慌てて受け止めると、平野はきつく目を閉じたまま、薄い肩を荒く上下させ喘いだ。
「先、行ってて、ください……ッ、ひゅウッ……、はっ、は――ッ…だいじょう、ぶ……午後の、授業には、出ます、から……っ」
「平野クン、今日は休んどき? 大丈夫や、サボりまくっとる俺と違て、平野クンは十分出席足りとるし……授業の内容は俺がちゃーんと書き留めてくるさかい、な?」
 桝谷が平野の顔色を覗き込みながら優しく言う。諭す声は落ち着いていたが、視線はうろうろと彷徨っていた。
「啓、お願いだから休んでくれ。もう、見ていられないよ」
 せめて今日だけでもいいからと懇願半分に言い続けると、平野はようやく小さく頷いてぐったりと寝台に身を預けた。
 後ろ髪を引かれる思いで部屋を出る五人が見たのは、浅い呼吸と止まぬ喘鳴に胸を喘がせる友の姿だった。
「啓、本当に大丈夫かな」
 廊下を歩きながら、野宮が不安そうに言葉を零す。
「あれは相当無理をしている。今にこれ以上ひどいことになるぞ」
 播本の冷静かつ非情な一言に、野宮はぐっと唇を噛んだ。
「おれ、いつも何もできないんだ。それが、くやしくてたまらない」
 なんで、おれよりずっと頑張ってる啓が苦しまねばなんねぇんだ? 野宮の苛立ちと悔しさの綯い交ぜになった呟きに、気の利いた言葉を返せる者などいなかった。

 永遠のように感じられた午前の授業がようやく終わりを告げた。終業の鐘が鳴ると同時に荷物をまとめて、全力疾走で食堂へ向かう。一番早く提供される蕎麦を注文して、五人で無言のままに貪った。食堂内に人が増えてくる頃には食べ終えて、食器を下げがてら食堂のおばちゃんに頼み込んで卵粥を作ってもらった。昼を食べに来られないであろう平野の分だ。
 体育科の鍛錬のように階段を二段飛ばしで駆け上がって(粥を持たされた原島はそうもいかず、取り残されることとなった)、今朝方躊躇いつつも出てきた二◯六號へと辿り着く。こういうときには階段に近いハズレ角はありがたい。
 軽くノックをするも、返事はない。寝ているのかなと思い、そのまま静かにドアノブをひねった。
 朝出たときのまま、火鉢を入れた部屋は暖かなにおいがした。駆け足でやってきた本江にとっては暑いくらいだ。
「あれ、いない?」
 寝台に平野の姿はなかった。少し外しただけなのか、掛け布団と毛布は整えられないままになっている。
「ご飯食べに行ったんやないの」
「入れ違ったかな」
 どちらにせよ、動けるようになったのならよかったと思った。朝の様子では動くことも儘ならないように見えたから、少しは快復したのだろうか。
「あれ、窓開けっ放しだ」
 閉めてくる、と野宮がぱたぱたと足音を響かせて部屋に入った。そのまま近づいて、半分ほど開いていた窓に手を伸ばし――
「啓! 啓、大丈夫?!」
 悲鳴にも似た声を上げて、野宮がその場にしゃがみ込んだ。慌てて追って部屋に入る。窓と机の間に身を投げ出すようにして、友の痩身がぐったりと倒れ込んでいた。
「ねえどうしよう、すごい熱い」
 完全に意識を失っているらしい身体を抱え起こし、混乱と恐怖に埋め尽くされた目をして野宮は本江を見た。
「おい、あまり動かすな。倒れたときに頭を打っているかもしれない」
 冷静に播本が言い、平野のすぐ横に膝をつく。
「平野、聞こえるか、平野、」
 播本が肩を叩きながら声をかける。播本に倣って、本江も隣に膝をついて様子を覗き込んだ。
 ひゅうひゅうと異常な呼吸音が耳を突いた。胸はほとんど上下していないのに、上滑りするような狭窄音だけが喉のあたりから微かに聞こえる。まともに呼吸ができていないのだ。触れた身体は焼け付きそうなほど熱いのに、汗のひとつもかいていない。播本の声にも、かなり強めに叩かれていることにも一切反応を示さない。
「誰か呼んでくる」
 それだけ言い残して、桝谷が部屋を出る。古い階段が壊れるのではないかと思うような足音だけが遠く聞こえてきた。
「啓! しっかりして、啓っ……」
 すっかり取り乱した野宮に代わって、本江は平野の背を支えた。手を離した野宮はそのまま尻をついて後ろに座り込み、ぼろぼろと涙を零し始める。
 播本が浴衣の襟元を寛げる。皮膚を突き破りそうなほど浮いた鎖骨を直視して、播本は思わず視線を背けた。

 五分と待たずに飛んできた校医は次の五分で手に負えないと処置を取りやめ、すぐさま近くの病院に連絡を取った。
 診断結果は、急性の肺炎。風邪と喘息発作を拗らせて、危険な状態だと告げられた。