十 拾二月拾六日

見果てぬ夢に、どうか小さな希望の灯りを。


 季節は足早に過ぎ去っていき、卒業を三月みつき後に控えた本江達が、いよいよ初めて教壇に立つ季節がやってきた。
 師走とはよく言ったもので、年の瀬の近づく学校はより一層慌ただしい。そんな時期に実習をさせるのは、ひとえに現場に人手が足りないからというだけの理由ではないかと師範生の誰もが思っていたが、勿論口に出しはしなかった。
 青南師範学校付属の尋常小学校は東京の中にいくつか存在していて、本江が実習をすることになったのは、寮から歩いて数十分のところにある小学校だった。近場に決まって幸運だったと、本江は密かに喜んだ。
「おはようございます」
 小学校の近くまでくると、子ども達の姿が増えてくる。道行く子ども達に本江は挨拶をしてみた。
 子ども達はきょとんとした顔をして、おはようございます、と不思議そうに返す。そりゃあそうだよな、と本江はひとり笑った。自分はとても教師には見えない。田舎から出てきて数年の、ちょっと東京言葉に慣れただけの若者だ。
 実習が終わればいよいよ卒業試験、春から僕達は教師になる。感慨に浸る心の余裕はない。卒業して僅か一週間後に、あなたは今日から教師ですと言われたところで、その責務を担えるわけがない。それでもやらねばならないのだ。そういう緊張が、日々高まっていくのを感じる。
 その日、本江は初めて教壇に立った。思っていたよりも教壇は高く、一段高いところから見下ろした子ども達はとても小さく見えた。教師はこうして威厳を保っているのだ、というからくりに触れたように思った。まだ教師ではないのに、子ども達は揃って本江を先生と呼んだ。今朝方校門の外でおはようと声をかけたときには大した反応もなかったのに、こうして教壇に立つだけで、子ども達はその人物を教師だと見做す。その慣れぬ感覚に、一日中体がざわついたままだった。
 実習は忙しくも楽しい。およそ一年と半年、ひたすら座学だけで学んできたことを、頭と体全てを使って実践できるときがやっときたのだから、面白くないわけがなかった。学んできたとおりにいかないことばかりだったが、その予想外すらも楽しかった。
 勿論楽しいことばかりではない。忙しい年末に降って沸いた貴重な若手の労働力に、面倒事や体力仕事は全て押し付けられた。実習生というよりは、教師の小間使いだ。おまけに実習を終えて寮に帰ってからは、その日のうちに記録を書いて翌朝一番には提出しなければならない。そんな生活が年越しを挟んで二か月も続くのだ。精神の昂りによって心は前向きでも、体は中々そうはいかない。疲れた体を引きずって帰ってきて残り物の夕食を掻き込み、残った気力をかき集めて記録を書いて泥のように眠る、そんな日々だった。

 向かいの席から聞こえる枯れた呼吸音に、本江は思わず目を上げた。
 平野はここのところいつも具合が悪そうだった。至って健康体な自分でさえも連日疲れ切っているのだから、身体の弱い彼にとってはかなりの負担だろう。
「少し、休憩した方がいいよ」
 本江が寮に帰ってきたときにはもう、平野は自分の席で講義録を広げていた。夜が更けていくにつれ、集中力を切らした本江が食堂へお茶を淹れにいったり厠へ立ったりする間にも、平野はすっと一枚深いところに入り込んだかのように、姿勢を崩さないでいた。
「もう少しだけ、あと少しで今日の分が終わるから」
 ありがとうございます、と平野は顔を上げないままに言った。呼吸がし辛いのか、時折薄い胸を緩く擦るのが気になった。
 一度ひとところに意識を傾けると、平野は中々こちら側に戻ってこない。周りが見えなくなるのではなく、自分が見えなくなるのだ。だから数時間ぶりに立ち上がった瞬間に目眩を起こして倒れそうになったり、発熱していることに気がつかなかったりする。
「うわ、すごいな」
 何気なく覗き込んだ彼の講義録を見て、本江は思わず声を上げた。端までびっしりと几帳面に書き込まれた記録は明らかに自分のものより細密で、完成度が高い。それでいてかける時間は自分と大差ないのだから、少し悔しくなってくる。
「毎日、本当に楽しくて。自分でも驚いてます」
 平野の声には隠しきれない疲れが覗いていたが、それ以上に希望に満ちた喜びが窺えた。
「ようやく、見つけたような気がしているんです。僕がどうして師範学校という道を選んだのか、その答えの一端に触れたような気がして」
 二人の実習先は別々なので、本江は平野の実習風景を直接見たわけではない。それでも、この入念で熱意に満ちた記録を見ていれば、立派にこなしているのだろうなとわかる。――それが彼にとっての天職であることも。
「啓みたいな人が、根っからの教師気質ってやつなんだろうな」
 僕なんてさ、子ども達にばかにされる始末だよ。ため息交じりに言うと、平野はようやく顔を上げた。
「僕も上手くいかないことばかりです。座学や、理想の通りにはいきませんね」
 でも、それさえも楽しくて。平野は幸せそうに笑った。そんな友の姿に、本江は少しの憧憬と劣等感を覚えた。
「子ども達がさ、僕達のことを先生って呼ぶだろ」
 平野の真っ直ぐな視線に導かれるように、本江は思っていることをひとつひとつ紐解いてみることにした。
「まだ学生なんだけれどな、と思いながらも、僕ははい、なんですかとぎこちなく返事をするんだ。そんな風に二日、三日、一週間と過ごして、ある日の夕方、ふと先生と呼ばれることに慣れきっている自分に気がついて、ぞっとした」
 先生と呼ばれることで、半人前であることをうっかり忘れて、いかにも何かできるような気がしてきてしまう自分が怖かった。
「まだまだ知らないことが多すぎるんだ。身につける努力はしているつもりだけれど、あまりに猶予がない。次の春にはもう学生という免罪符を許されなくなってしまう。そんな焦りが、ますます空回りさせていくんだ」
 元々要領のいい方ではない自覚はあったが、あまりに先の見えない不安ばかりが先行して、やることなすこと裏目に出る始末だった。どんなに焦っても、毎日は淡々と、着実に過ぎていく。卒業を迎える春が、教師としてひとつの教室を任される日がもうすぐそこまで迫っている。

「本江君は最初から教師を志して、ここにきた人でしたよね」
 覚えていてくれたのかと本江は少し驚いた。
「うん。……そうじゃない人も多かったから、中々言い出しづらかったんだけど」
 教師を志していると早々に伝えたのは平野だけだったなと、ふと思い出す。主席入学、見るからに将来優秀な教師になるであろう彼にならば、素直に話してもいいような気がしたものだった。
「僕がまだ小学生の頃に、とても良くしてくれた先生がいて。それで教師に憧れた。単純だろ?」
 将来の夢というものを初めて考えたのがあの頃だったなと思う。生まれた家の家業を継ぐ以外にも生きる道があってもいいのではないかと考えるようになったのは、あの頃だった。
「うちは代々官吏の家系で。僕が教師になりたいと言うと、勿論いい顔はされなかった。それでも説得し続けて、なんとか許しを得たんだ」
 師範学校など貧乏人の行くところだ、お前は中学を出て役所に勤めればいい、それで人生安泰なのだから――何度両親に言われても、言うことを聞けと兄に怒鳴られても、師範学校に行きたいと言い張り続けた。思えばそれが最初で最後の反抗期であったのかもしれない。
「師範学校に進むことを許されるには条件があってさ。それが、東京に行くことだった。東京で教鞭をとった経験があれば、将来故郷に戻って役人になるための礎になるからと」
 地方の官吏によくあることさと、本江は諦めて笑った。
「僕は本気だ。本気で教師になりたいんだ。小さくて狭い世界から連れ出してくれたあの先生が忘れられない」
 それでも決意とは裏腹に、日増しに自信は失われていった。不器用で人より飲み込みの遅い自分では、とても憧れたあの教師のようにはなれないとどこかでわかっていた。
「でも、さ。僕は、子ども達に応えられるだけの存在になれる自信がないよ」
 優秀な友にそんなことを言ったところで、ますます自分の劣等感に拍車をかけるだけであろうに。それでも、本江は口に出さずにはいられなかった。そうでなければおかしくなってしまいそうだったからだ。
「本江君の気持ち、わかるような気がします」
 平野はゆっくりと頷いた。
「僕は、ただ知らないものを知りたくて、許されるうちに見られるものは見ておきたくて、故郷を出ることを望みました。幼い頃に、医者が両親に話しているのを夢うつつのうちに偶然聞いてしまったんです。この子は、二十の歳を数えられるかわからない……とね。それが真実ならば、あと四年もないことになる」
 本江はただ黙って聞くしかなかった。比べようもなく重いものを抱えたままで、ひどい話でしょう、などと笑ってみせる友に返す言葉など持ち合わせていなかった。
「実際にここに来て、段々とわかってきたんです。ただ外が見たかっただけの自分が、今度は誰かを外に連れ出せる存在になりたいと思うようになってきていることに」
 憂う瞳にランプの弱い光が反射する。彼の不安を見透かしたように、それはちらちらと儚く揺れていた。
「正直、とても不安です」
 平野の声は少し震えていた。嘘偽りのない感情がそこにはあった。
「身体がついていかないこと、薄々気がついてはいるんです」
 手のひらを眺めて平野は言う。実習が始まってからまた少し細くなった手首には、うっすらと青い血管が透けていた。
「最近、あまり食べていないよね」
 自分よりも遠い学校に実習に行っているというのに、本江が帰る頃には平野はいつも夕食を終えて寮の部屋に戻っている。今日まで特に疑問に思うこともなかったのだが、ようやくわかった。きっとほとんど食事も摂れていないのだ。
「体力をつけねばと、気持ちだけはあるのですけれど……どうしても、受け付けなくて」
 情けないことです、と平野は目を伏せる。
「きっとね、僕は教師になるべき人間ではないんです。手の届かないとわかっているものを望むほど、愚かで無意味なことはない……そうと知れただけで充分です」
 まるで自身に言い聞かせるような言葉だった。自ら何度となく告げることで、最初から望まなかったことにしてしまうための防衛機構。
「でも、やりたいんだろ」
 自信のない、しかし才能に恵まれた友の背中を押せるのは自分しかいない。彼の作った壁を壊せるのは、自分しかいない。
「そう、やりたいんです。それだけが、今の僕に許された全て。……いや、本当は許されてなどいないのかもしれない。それでも、全てなんです」
 平野は儚く笑った。目尻を濡らした雫が零れることはついぞなかった。
「覚えてる? いつか入学したての夜も、こんな風に話をしたこと」
 思えばあの夜もふたりきりで、とりとめのない未来の話をした。今よりもなお先は見えず、それゆえ妙な希望と期待に心が浮き立っていたなと思い出す。
「ええ、覚えています」
 あのとき、発作を起こした僕を追ってきてくれたこと、本当はとても心強かったんです。平野は柔らかな目をして言った。
「あれからたった一年と少しだけれど、僕達はあの頃の夢に確かに近づいてる」
「近づけているといいですけれど」
 この先、どんな風に人生を歩んでいくのかはまだわからない。僕も平野も、想像もしなかった未来に辿りつくかもしれない。それでもいつか辿り着いた先で、半人前未満の今日の自分を肯定してやれればいいと思う。そうなれるために、未熟な僕らは今日を精一杯に生きる。
「啓は、どんな教師になりたいの」
 朧げな夢を、地に足のついた生き方へと変えていく。そのための小さな一歩として、本江は尋ねてみた。
「まだ、決めないでおきたい。まずはきちんと卒業して、学生ではなく教師として子ども達と向き合って……そうした日々の中で見つけていきたい、かな」
 本江君は? 平野に訊かれて、本江は少し迷ってから口を開いた。
「どんな教師……ってのとは、少し違うかもしれないんだけれど。時々、こんなことを想像するんだ」
 気恥ずかしくなって躊躇った本江に、聞かせてください、と平野は目を向ける。
「どこか静かなところに小さな、それこそ一軒家みたいに小さな学校があって。学校というよりは教室、かな。そこではね、毎日子ども達の楽しそうな声がするんだ。僕はそんな教室の片隅で子ども達と一緒に笑いながら、ああ、幸せだなあと心から思っている。そんなささやかな夢」
「素敵ですね。本江君はそこできっと、子ども達に慕われて、愛されて、愛して。その目で見てきたことを伝えて、まだ見ぬものの見つけかたを教えて……」
 それは本江がずっと心の中に温めてきた夢だった。いつかどこかの小さな教室で、まだ小さな世界しか知らない子ども達に大きな何かを見せてやりたい。
「夕暮れの中、子ども達がそれぞれの家に帰っていくのを、僕は手をふって見送るんだ。……ねえ、今その教室の名前を思いついたんだけれど、言ってもいい?」
「ええ。なんていうんです?」
 馬鹿にされそうなちっぽけな夢でも、平野となら共有できる気がした。優秀な友はもっと大きな未来に歩んでいくのだろうけれど、彼にならわかってもらえると思った。
「その教室の名は――」

 カーテンの向こうが徐々に白んでくるまで、二人は少し先の未来の話をし続けた。