「これは事件の臭いがしますなァ!」
まるでポーの『猩々怪』やないか、え? いやちゃうな、この置き手紙が暗号だとすると『黄金虫』か――まるで推理小説のようだと枡谷は調子づく。いつもならば冷静なつっこみを下すのが原島の役割なのだが、彼不在の今、止める者がいない。
「楽しんでる場合かよ! 瑞生ならともかく、崚は遊びでこんなことするやつじゃないだろ」
「俺の信用のなさ」
「友の不在を探偵小説に喩えて笑う奴に、信用もへったくれもないよ」
「まあまあ、落ち着けや。そんな怖い顔しなさんな」
珍しく焦ったように狼狽える野宮に、桝谷はどうせ騒ぎ立てるようなおおごとじゃない、遅くても夕方には帰ってくるさと、殺気立った肩をぽんぽんと叩いて宥めた。
「……今回ばかりは野宮君に賛成だ。原島君はふざけてこんなことする人じゃない。きっと何か、僕達に言えない重大なことが起こったんだ」
やっとほぼ正常に回り出した思考で、本江は必死に考えていた。やはりこれは、どこかおかしい。
「原島に秘密が多いのなんて、今に始まったことやないやろ」
「そうだけど、今回ばかりは何か違うような気がするんだ」
それは言葉にできない第六感のようなものだった。敢えて言うならば、一年半の共同生活で得た共鳴感だろうか。書き置きの掠れたインク跡が、破り取られた帳面の乱雑な切れ端が、解りにくくも確かにそこに存在する救難信号のように思えてならなかった。
「これは、探してくださいという意味ですよね?」
後ろでじっと走り書きを眺めていた平野がぽつりと呟いた。
「本当に探してほしくないのなら、置き手紙なんて残しません。……少なくとも僕ならば、そうします。本当に見つかりたくないのなら、何ひとつ残さず消えることを選ぶ」
平野の鋭い一言に、誰もが口を噤んだ。
こういうときの彼の言葉は強い。誰もが感情に踊らされてしまいそうな場面で、水面にぽたりと落ちた氷雨のごとき一言は、蒸発しかけた冷静さを一瞬で取り戻してくれる。その落ち着きが頼もしくもあり、時に恐ろしくもあると、本江は思う。
「平野クン、まったくもってその通りや」
桝谷がうんうんと大仰に頷きながら平野の側に歩み寄る。
「この書き置きを残された人間は、消えた奴を探さねばならんと先史の頃より決まっとる。……たとえ授業をエスケエプしてもな!」
なァ、寮監には言わんといて、今回だけ見逃してや監督生! 桝谷は両手をぱちんと合わせると頭を下げた。こんな楽しそうな一幕を逃すわけにはいかないと必死なのだ。
「そう言われても……それを決める権限は僕にはありません。やはりきちんと事情を説明して、それから、」
「鬼の寮監がそんなん許してくれるわけあらへん! なあ平野クン、急に行方の知れなくなった友を探すことが、毎日毎日代わり映えもなく続く授業よりも大事なことはわかってくれるやろ?」
桝谷のどこか的の外れた必死さに、側で聞いていた野宮はあからさまに呆れたという顔をした。
「それは……たしかに、僕だって原島君が心配です。ひとりでは手に負えない事態に遭遇しているのなら、力になりたいと思います……でも、それとこれとは」
言い淀む平野に、なおもと桝谷は言葉を続けようとする。無理難題だと判りつつも果敢な挑戦を止めない桝谷のしぶとさ……いや、飽くなき行動力は見習うべきなのかもしれない。
「僕は行かない。くだらないことに付き合ってる暇はないからな」
必死な桝谷を嘲笑うように、播本はぴしゃりと言い捨てた。
「まてまて、つれないなァ播本! ハズレ角の一大事なんや、ちっとは話に混ざれや」
そのまま黙って部屋を出ていこうとした播本を、桝谷は慌てて引き止める。
「原島が勝手にいなくなったんだろ。探しにいくのも勝手にすればいい」
「そう言わずに、協力しようや。播本の優秀な頭脳があれば、すぐに解決できるんやないかなと思ってな」
桝谷はニヤニヤと笑う。本当に播本の頭脳をあてにしているわけではない。どうにかしてお堅くてつまらない優等生を外に連れ出せないものかと思案するのが楽しいのだ。
「と、とりあえず、朝食を食いっぱぐれるのはよくないんじゃないかな! もしかしたら食堂にいる誰かが何か知ってるかもしれないし、ここで話をしていても堂々巡りだと思う」
じっとりと険悪な空気に空腹感も相まって、いよいよ話が拗れ始めた。こういう非常事態にとことん弱いとげんなりしながら、軌道修正しようと本江は慌てて叫んだ。
ひとまず朝食を十分でかき込み、教室まで来たものの、五人は気もそぞろでとても授業どころではない。
「どうした、揃って難しい顔して」
そんな五人のそばにぬっと近づく影がひとつ。見れば、名雪知巳であった。
「名雪先生、その……」
言い淀んだ平野を桝谷が慌てて止める。
「なんだなんだ、青春の悩みならいつだって聞くぞ? おっかない寮監殿には特別に黙っておいてあげよう」
名雪はからからと笑う。その笑みには裏があることを、僕らはとうに知っている。
名雪先生は頼りになるが、真実を打ち明けるのは最後の手段だ。言葉にせずとも、五人の見解は一致していた。
「そういえば、原島はどうした? 今日は一緒じゃないのか」
やはり名雪がそれに気がついていないはずがなかった。意図の読みきれない問いかけを前にして、一瞬答えに詰まる。その不自然な空白すら、名雪に対しては回答に等しいとわかってはいたが、そこまで上手くはやれなかった。
「今朝から調子悪いみたいで。部屋で休んでいます」
本江が咄嗟にでまかせを言い、桝谷は同調してわざとらしく頷いてみせた。
「それは珍しい。……では、今朝のあれは見間違いだったかな」
名雪は顎を撫でながらふうむと唸った。この気の抜けない腹の探り合いを名雪は続ける気らしい。
「今朝、とは?」
桝谷以上にわざとらしい名雪の素振りに、播本が思わず口を挟む。
「いやあ、朝早くに裏口からこそこそと出ていく小柄な後ろ姿になんとなーく見覚えがある気がしたんだが。……気のせいかね」
やはり、思わぬところに手がかりは転がっているものなのだ。何の生産性もなく寮の部屋で堂々巡りの議論を戦わせるだけでは解決しない。
「名雪先生」
平野が真面目な顔で切り出した。――これは、勝負をかける気らしい。
「うん? 何だね、平野君」
「外出許可を頂けませんでしょうか。半日だけ、日が暮れるまでだけでも」
何の衒いもなく策もなく、ただ真っ直ぐに平野は告げた。
「これはこれは」
名雪はくすりと笑った。試すような目つきで平野をじっと見つめる。
「学生時代ならいざ知らず、俺も今や生徒を指導すべき立場だからなあ。そう易々と許可するわけにはいかないよ」
目の前に立ち塞がった教師の、底の知れない瞳の温度がすっと下がる。
本江はぞくりと背が粟立つのを感じていた。これは、有無を言わせず人を従わせる目だ。声を荒らげずとも、人を意のままに操る力を持っている。
「お願いします」
平野は凍るような瞳を一心に見つめ返した。
「監督生という立場でありながら、君は公より私情を優先する気かい?」
「はい。どんな立場にあろうとも、それを理由に友を見捨てることはできません」
平野は切れ長の目を綺麗に細めて笑ってみせた。柔らかな瞳の奥に、彼の揺らがぬ強さを見た。
一秒、二秒、息をするのも痛いような時間が過ぎる。
「……負けたよ、根負けだ。仕方がない、青春の一頁に免じて今日だけお目こぼししてやろう」
ふ、と名雪は吹き出すように笑う。
「許可するかわりと言ってはなんだが、帰ってきたら事の顛末を教えてくれ! 実を言えば、俺も今朝から気になって仕方がなかったんだ」
ほら、早く行きなさい。教師の目をして告げた名雪に、平野はただ深く一礼した。
やはり彼らはどこか似ている、と本江は思う。
彼らは決して本心を直に触らせない。心を一枚の柔らかな薄絹の向こうから透かせて見せるような仕草や言葉の選び方をする。
名雪は意識的にそう振舞っているのだろう。自身の言動ひとつで波風少なく他人を操作できることを、名雪は熟知している。――では、平野は?
無意識であることが周囲にとっても本人にとっても一番恐ろしいことなのではないかと、本江は思った。
