八 六月六日 - 2/2

 寮の二階がこんなにも遠いと思ったのは初めてだった。いくら軽いとはいえど、同年齢の人間ひとりを背負って軋む急な階段を登るのはさすがに堪える。
 二◯六號室が階段を登りきったすぐ目の前で助かった。季節外れの汗をぼたぼたと滴らせながらなんとか部屋に転がり込み、目指す壁際の寝台に彼もろとも座り込んだ。
「座ったまま、の方が……楽、で……ッ」
 寝台に寝かしつけようとすると、平野は弱く抵抗した。突如鎌首をもたげた激しい咳の発作に、続く言葉はかき消された。
 薄い胸を裂くような痛々しい咳は治まる気配もない。はぁ、はぁと荒い呼吸に肩が跳ね、それでも逃しきれない呼吸苦が掠れた呻き声となって落ちた。
「僕を庇って、無理にでも寮に帰ると言ったのか」
 ぜろぜろと止めどない喘鳴に溺れる背に手をやりつつ尋ねる。
「医務室に行けば事のあらましが明るみに出ただろう。元はあいつらが手を出したとはいえ、僕も竹刀をふるったと知られるのは避けようと思った。そんなところか?」
 平野は答えない。それが何よりの答えだと思った。
「僕には、君のしようとしていることの意味がわからない」
 初めて平野は反応を返した。薄い瞼をふるりと震わせ、青褪めて肩で息をしながらも小さく笑った。
「播本、くんは」
「何」
「播本君は、ここに、来たくはなかった、ですか」
 わかりきったことを、と播本はため息で返した。
「ああ」
「そう、ですか」
 しばらく沈黙が流れる。平野の依然苦しげな呼吸だけが耳に痛かった。
「そんなにも、自分を、許せませんか」
 苦しい息のまま、平野は播本の目を確と見た。濡羽色の瞳が真っ直ぐに播本を射抜いていた。
「……父も、兄二人も揃って一高、帝大卒で上級官僚となった。その生き方以外は存在しない、播本の名を名乗ることは許されないと、幼い頃から意識の最も深いところに刷り込まれてきた」
 こんなところにきてしまった時点で、播本の家を追い出されたも同然だった。未来のない人間に存在価値はない。好きでもない勉学に必死に励んで、疲労骨折するまで竹刀を握り続けて――ひたすらに認めてもらうためだけに生きてきた十五年間が、たった一夜にして全て水の泡になった。生きる意味も、目的も愛情も全ては幻だったのだと知った。
「今のこの国を、教育を取り巻く考え方はあまりにも馬鹿らしくて、幼稚だ。僕はそれが許せない。そこに身を置くしかない自分も、許せない」
 教えてください、と平野は目だけで問うた。
「師範学校は特に閉鎖的だと思う。例えば、卒業後の同窓会は一部生のものだけが学校に公式に認められて、二部生のものは非公式の集まりでしかない。それどころか、公的な場で学校の名を冠して活動をすることさえ許されていない。元々第一部が本科で、二部が予科だったという歴史的な優越意識に由来するのだろうな」
 平野は頷く。徐々に薬が効いてきたのか、憔悴するばかりだった瞳に理知的な気配が戻ってきていた。
「たしかに、その通りです。しかし、今こうして……ッ、けほっ……こうして、同じ部屋で言葉を交わしている現状に、一部生と二部生の隔たりはないでしょう」
「それはどうだか。仮に僕がどれだけ優秀な成績を修めたとしても、二部生である以上、僕は校友会には所属できない。一部生の君とは違って、望む、望まないにかかわらず、そもそも権利が与えられていないんだ。そういう積み重ねが、僕達の意識の深いところに見えない壁を生み出していく」
 見えない障壁こそが最も自由を縛る。できなくて当たり前、その考え方自体が異常であるという感覚が麻痺していくのだ。
「師範学校を卒業することが、高等師範学校に進学するための必須条件だった時代は終わった。教師が足りない今のご時世、もっと門戸を広げなければ、近い将来教育制度は破綻する。それで中学から高師へ進む道筋が作られたわけだ。
 制度が変わってからというもの、師範学校から高師へ進むことは極めて難しくなった。師範学校より、中学卒の学生の方が明らかに学力が高いからだ。二部生は中学、もしくはそれと同等の教育機関を卒業してからの編入だから、基礎学力からいって高師に進める可能性が高い。そういう人間が悠々と進学していくのを傍目に、一部生は大した社会的地位も望めない、ただ搾取されるばかりの小学校教師になるしか道がなくなった」
 かつては優秀だが経済力のない人間の出世道だったかもしれないが、今やその細道さえも絶たれた状況で、どうやって未来に希望を抱けというのだろう。ましてやそういう先のなくなった、生き方の選べなかった人間ばかりが初等教育に携わるようになるのだ。富国強兵に傾きつつある時世上、その先に待つのは考える力を奪われた従順な人間の量産だ。
「全てはもっと上の人間や制度に仕組まれた結果だ。今ここにいる学生共は全員敗者だ。それを甘んじて受け入れる師範学校生の気質が嫌いだ。声を上げる術すら知らない、知ろうともしない穏やかなばかりの従順な人間が、僕は死ぬほど嫌いだ」
 反論できるものならしてみればいい。播本は真っ直ぐな濡羽色の瞳を射殺すように見返してやった。いかにも品行方正な理性の裏に隠したどす黒い諦めを、何者にもなれやしないのだという真実を、白日の下に引き摺り出してやりたいと思った。

 しばらく押し黙った後、平野はゆっくりと口を開いた。
「甘んじてなどいません。ただ、誰しもが声を上げられるほど、強くは在れない……それでも手を伸ばすことを、僕は軽蔑したくありません」
 それは穏やかな普段の彼からは想像もできなかった、はっきりとした口調だった。争うことが嫌いで、人の顔色を窺ってばかりの弱い彼とは違っていた。
 それは播本の目指す何かに、少し近しい気がした。
「播本君は、きっとここにいる誰よりも大きく広く、物事を見ているのでしょう。……だから、目先のことしか見えない人達を腹立たしく思う」
 その言葉の端々には依然として迷いが見えたが、底に通った芯は揺らがなかった。
「けれど、貴方が切り捨てた小さなひとつひとつも、日々を形作る上でなくてはならない一欠片だと思うんです」
「だから苛立つな、我慢して飲み込め、と?」
「いいえ。ただ、そういった違う目線を持った者同士が出会える場所が、この学校なのではないかと思うだけです」
 だから、僕はここに来られてよかったと心から思うんです。平野は滲む目をして小さく笑うと、吐息にも似た儚い咳をひとつ零した。
「僕にとってこの学校で過ごす時間は、高師に進むために仕方なく支払う時間にすぎない」
 どんなに意味を求めようと努力しても、播本にはそれ以上のものには思えそうになかった。ここに来られてよかっただなんて、嘘でも言える日がくるとは思えなかった。
「僕にとっても、いいえ、誰にとってもここは通過点でしかないのだと思います。ここは、人生の終着点じゃない。いつかの未来のために一瞬で過ぎ去る、しかしかけがえのない時間なんです」
 そんな風に考えてみるのは、どうでしょう。平野はゆっくりと問いかける。
「播本君は、きっと大丈夫です」
「そういう日和見が、一番嫌いだ」
 播本の答えに、平野は声を上げて笑った。
「大丈夫って、たまには自分で自分に言ってあげないと。……播本君はそういうのが得意ではなさそうなので、僕が代弁してみたまでです」
――ああ、そうか。彼はずっとそうしてきたのか。何度体調を崩そうと、期待したものに手が届かなくても、大丈夫と自らに言い聞かせてきたのか。
 その虚弱な身体に秘めた真っ直ぐな強さは美しい、と初めて思った。誰かのことを純粋に、妬みも嫉みもなく眩しいと思うなんて、生まれて初めてだった。
「平野君、僕は――」
 自分はここにいることを、こんな不甲斐ない日々を生きることを許されるのだろうか。許してもいいのだろうか。

 階段をどたばたと騒がしく駆け上がってくる音と、直後に勢いよく開けられたドア。
「啓、大丈夫か?!」
 待てを忘れた犬のように部屋に転がり込んできた野宮は、平野に付き添っているのが播本だと気づいてあからさまに顔をしかめた。
「もう少し静かにしろ。寝ているとは考えないのか」
「……ごめん」
 不機嫌に唸った野宮の後ろから顔を覗かせた桝谷もげっ、という顔をする。
「なんや、播本かいな」
「僕で悪かったな」
「いや、堪忍。倒れたとこを助けてくれたんやろ? わざわざおおきにな」
「わざわざも何も、別に見捨てる理由もないだろ。……それだけだ」

 この日を境に、播本は皆と少しずつ打ち解けるようになった。
 相変わらず辛辣な物言いは変わらない。それでも、そこには不器用な優しさが灯るようになった。
「平野君、僕は――僕は、もう少しここで、新しい生き方を探してみようと思う」
 十年後を生きる自分を、許すために。